マーク IV 戦車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/23 17:15 UTC 版)
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| 基礎データ | |
|---|---|
| 全長 | 8.04 m | 
| 全幅 | 雄型:3.91m雌型:3.2m | 
| 重量 | 雄型:28 t雌型:27 t | 
| 乗員数 | 8 名 | 
| 装甲・武装 | |
| 装甲 | 12 mm | 
| 主武装 | 23 口径 オチキス 6ポンド(57 mm)戦車砲 6cwt Mk.I×2(雄型)(332 発) ルイス .303(7.7 mm)空冷式軽機関銃×5(雌型) | 
| 副武装 | ルイス .303(7.7 mm)空冷式軽機関銃×3(雄型) | 
| 機動力 | |
| 速度 | 6.4 km/h | 
| エンジン | デイムラー ナイト ダブルスリーブバルブ 16,000 cc 水冷直列6気筒ガソリンエンジン 105 hp/1,000 rpm | 
| 行動距離 | 56 km (積載燃料量 70 英ガロン) | 
| データの出典 | 『世界の「戦車」がよくわかる本』 | 
マーク IV 戦車(マーク 4 せんしゃ、Mark IV tank)は、イギリスが開発した世界初の戦車であるマーク I 戦車の問題点を改善・改良した戦車である。
前期型菱形戦車の集大成にして、菱型戦車の内で最も大量に生産された、主生産型である。
概要
 
    
   世界初の戦車となったマーク Iであったが、開発を急ぐあまり乗員の居住性や安全性は考慮されていなかった[1]。菱形戦車としてはほぼ完成型の域に達してはいたものの、その構造上サスペンションは搭載されず、乗員の居住性は最悪であった[1]。特にエンジンルームと乗員搭乗室が同じ部屋で仕切り等もなかった為、エンジンの発する熱による弊害や振動により乗員がむき出しのエンジンに激突するなど問題があった[1]。また、車内に光源が存在せず、小さな銃眼から差し込む光が頼みであった。これも換気扇などがない車内では、エンジンの排気や発砲煙によって遮られた[1]。
これらの問題点はマーク IIやマーク IIIと改良を重ねるごとに改善されていき、乗員の居住性も含めて前期菱形戦車の集大成となったのがマーク IV 戦車である[1]。マーク IIとマーク IIIは練習用戦車なので、実戦用戦車としては、マーク Iの次はマーク IVとなる。
マーク Iと同様に砲と機関銃を備えた雄型と、機関銃のみ装備の雌型の2種類が存在し、基本的な形状は変わらないものの若干小型化している[2]。燃料タンクは内蔵型から車外へと移し容量の増加を図り[3]、エンジン冷却ファンや換気扇の設置により、排煙の問題や居住性の向上に繋がった[2]。また、ドイツ軍のSmK弾を考慮し、特殊な鋼鉄製装甲に変更された[2]。車体上には軟弱地脱出用の角材を載せるレールが設置された[3]。マーク Iから続く大型尾輪(ステアリングホイール)も継承されてはいるが、実戦ではこれを取り外している車両が大半だった[4]。
武装はマーク III型からの変更だが、左右砲郭に1門ずつ装備された57 mm(6ポンド)砲が40口径(長距離射撃向け)から23口径へと短砲身化されている。これは不整地走行の際、「長い砲身が地形に引っかかる」との苦情に応えた物で、砲の威力(貫徹力)は当然減少するのだが、対戦車戦闘を考慮に入れない当時は問題にされず、むしろ砲の取り回しが改善されたとして歓迎された。
なお、砲郭部のスポンソン(張り出し)はそれまでの菱形戦車と違い、鉄道輸送時に取り外すことなく車内へ引き込むことが可能に改良されている。
マーク IV型以降の雄型の主砲である、23口径(L/23)57 mm(6ポンド)砲(QF 6-pounder 6 cwt Hotchkiss)は、銃身長約1.32 m(ボア長52.12インチ)。これはオチキス社製の艦載砲を陸上用に短縮したものである。この仕様は、菱形車体に収まるよう設計されたものであった。
射程は約3,000 m、貫通力は200 mで約20 mm鋼板を貫通可能。短口径のため初速が低め(約400 m/s)で、対歩兵/軽装甲に適していたが、対戦車能力は限定的であった。
雌型は機関銃のみ。
マーク I〜III型までは、スポンソン(両側面)の機関銃のみで前方固定武装はなく、マーク IV型から全方位火力強化の一環として、前方機銃(キャブ前部または操縦手位置の上部に1挺)が追加された。
しかし、マークI以来の「操縦に4名の乗員が必要」という最大の欠点は依然として存在した。この欠点は次作のマーク Vで解決する。
1917年より製造が開始され、総生産数は、1,220輌に上る。このうち、雄型(Male、6ポンド砲搭載型)が420輌、雌型(Female、機関銃搭載型)が595輌、無武装の物資輸送用の補給戦車型が205輌であった。この数字は、第一次世界大戦中に大量生産されたマーク IV 型が、最も多数を占めたイギリス戦車として、知られている。
更に、その内の既存車両を改造して、武装を撤去してクレーンを搭載した、回収戦車型などの派生型が存在する[5]。
派生型
- 補給戦車(Tank Tender(Supply Tank)):完全無武装の補給用車両で、武装を撤去し、代わりに荷台や補給資材を運ぶためのスペースを確保したタイプ。主に燃料や弾薬の運搬に使用された。クレーンは標準装備ではないが、一部の運用で簡易的な荷役装置が追加された例がある。
生産数: 205輌。
特徴: マーク IV 戦車のベースシャーシを使用し、戦闘用とは異なり後方支援に特化。第一次世界大戦の西部戦線で広く活用された。
- 回収戦車(Crane Tank(Recovery/Salvage Tank)):回収・救助用に武装を撤去し、ポータブル型のクレーン(ジブアームとチェーンホイスト)を搭載した実験的・運用型バリエーション。主に故障した戦車の引き揚げや泥濘からの脱出作業に使用。マーク IV 戦車 雌型をベースに改造されたものが多く、キャビン後部にクレーンを固定する形式であった。
生産数: 具体的な総数は不明であるが、実験段階から一部の運用車両に適用され、少数(おそらく数十輌程度)のみ生産・改造された。大量生産型ではなく、戦場での即席改造も多かったよう。
特徴: クレーンのジブは手動式で、戦車の重量物を扱えるよう設計。回収作業(Salvage operations)で重要な役割を果たした。
 その他の関連派生型 
- アンディッチング・ビーム搭載マーク IV 戦車: クレーンではないものの、無武装化に近い支援型で、大型木製の脱溝梁を搭載。戦場で既存のマーク IV 戦車に後付けされ、泥濘脱出を支援。
※アンディッチング・ビーム(英: Unditching Beam、日: 脱溝梁)は、第一次世界大戦期のイギリス陸軍が使用した、マーク IV 戦車向けの脱溝装置である。主に泥濘地や溝に陥没した戦車を脱出させるための簡易的な補助具で、戦車の履帯(キャタピラー)と連動して地面に食い込むことで推進力を回復させる仕組みを持つ。
歴史
アンディッチング・ビームは、1917年のアラスの戦い(Battle of Arras)において、マーク IV 戦車が泥濘や爆弾による陥没穴に頻繁に立ち往生する問題に対処するために開発された。当時のマーク IV 戦車は重量約30トンに達し、青粘土質の軟弱地盤や戦場に残るクレーターで容易に動けなくなることが多かった。これにより、戦車の運用効率が著しく低下していたため、簡易で低コストな解決策として導入された。この装置は、戦車の標準装備として一部のマーク IV 型に搭載され、戦場での即時対応を可能にした。開発の背景には、ウィンストン・チャーチルらによる戦車開発の推進も関連しており、戦車の機動性を向上させるための試行錯誤の一環であった。
アンディッチング・ビームは、第一次世界大戦の菱型戦車の内では、マークIV以外にも使用された。特に、マーク Vとマーク V*でも標準的に装備され、屋根上のレールに固定されて運用された。マークVでは、乗員が車外に出ずにビームをトラックに固定できる設計改善が施された。マーク V(延長型)は特に、米軍部隊でも使用例がある。
マーク VIIやマーク VIIIのプロトタイプには、レールが設計されていたが、実戦投入されなかった。
アンディッチング・ビームは、菱型戦車全体(マークI〜IX)では、主に後期モデルで採用された脱出補助装置で、マーク I〜IIIでは使用されていない(一部の訓練用や実験で類似の簡易ビームが試された可能性はあるが、標準装備ではない)。
仕組みと使用方法
アンディッチング・ビームは、木製または金属製の長大な梁状の部材で、チェーンや固定具を用いて戦車の上面に収納される。陥没時に使用する際は、以下の手順で展開される。
- ビームを戦車の履帯の下に通し、両側を固定する。
- 戦車のエンジンを起動し、履帯を回転させる。
- ビームが地面に食い込み、摩擦力とグリップを高めて戦車を前進させる。
この方法により、戦車は自力で脱出が可能となり、牽引車や人員の投入を最小限に抑えられた。装置の簡素さから、製造・輸送が容易であり、戦場での即席修理や交換も行われた。
現代の関連
現代の主力戦車では、アンディッチング・ビームの直接的な後継として、脱溝用ログ(unditching log)と呼ばれる木製または合成樹脂製のログが使用される。これはビームと同様の原理で、M1エイブラムスやレオパルト2などの戦車に標準装備されている。また、電子制御式の回収装置やワイヤーウィンチが併用されることが多く、技術の進化を反映している。
 これらの派生型は、マーク IV 型の総生産1,220輌のうち、戦闘用(雄型・雌型)が大部分を占め、無武装型は全体の約17%(主に補給戦車型)。回収戦車型は主に実験・限定運用で、戦後の回収作業にも一部転用された。 
 
-  
     
    撃破されたマーク IV 戦車
-  
     
    アメリカ陸軍兵器博物館のマーク IV 戦車 雌型
カンブレーの戦い
1917年11月20日から12月7日にかけて、史上初の戦車の集中運用が行われた。「カンブレーの戦い」である。
ドイツ軍が構築した「ヒンデンブルク線」を突破するため、イギリス軍は交通の要所(にして、ドイツ軍の縦深防御陣地が築かれていた)カンブレーに攻勢をかけることを決定、主力となるマークIV戦車を含めて、400輌以上の車両が集められた。
この作戦では、(歩兵の支援役として)戦車を先行させつつ、そのすぐ後方に歩兵と砲兵が移動し、砲撃支援や陣地制圧を行う、「歩砲連合」と呼ばれる戦法が取られた。さらには、上空の偵察機や地上攻撃機との連携も考慮されていた。
イギリス軍は、従来の長時間の砲撃の代わりに、突破点となる場所への煙幕弾を含めた短時間での集中砲火と戦車の集中運用により、奇襲性を高め、鉄条網や機関銃陣地などの突破を試みた。
ドイツ軍の虚を突いた攻撃により、戦闘序盤は完全にイギリス軍優勢で進んだ。特に戦車の突破力はすさまじく、ヒンデンブルク線を越え、初日で最大約8 kmも進むという大戦果をあげた。1週間後の11月27日には、カンブレー周辺に、最大幅約11 km、奥行き約9.5 kmに渡る勢力圏を確保した。
しかし、イギリス軍の快進撃もここまでであった。戦車は突破口を作ったものの、以降は目立った活躍はなかった。この戦いでイギリス軍は、戦車のみを集中的に前線へと突出させてしまい、航続距離が短い当時の戦車は、立往生した車両も多かった他、友軍砲歩兵の支援の無い戦車は、その車内からの視界の悪さもあって、ドイツ軍砲歩兵の待ち伏せに対応できなかった。ドイツ軍砲歩兵も巧みな戦法で応戦し、比較的装甲の薄い側面や後面を、野砲での直接射撃や歩兵の迫撃砲によって狙われるなどして、65輌が撃破された。結局、投入された戦車の半数近くにあたる約200輌が行動不能となった。
11月30日には、ドイツ軍の反撃が始まった。ドイツ軍は、短時間かつ集中的な準備砲火と、突撃歩兵による浸透戦術を試験的に運用し、戦線を一気に押し戻してヒンデンブルク線を取り戻し、戦闘が終了する12月8日時点では、ややイギリス側に最前線が動く結果となった。
史上初の戦車戦
マークIVは1918年4月24日にフランスのヴィレ=ブルトヌーで、ドイツ軍と史上初の戦車戦を経験している[5]。この戦闘は偶発的なものであったが、イギリス軍がマークIV雄型・1輌に雌型2輌、ドイツ軍がA7V・3輌と車輌の数では互角であった[5]。
- ドイツ軍第3突撃戦車大隊(指揮:ヴィルヘルム・ビルツ少尉) 
    - A7V:3輌(内2輌は位置が離れていたので、戦闘に参加できず、実質1輌)
 
- イギリス戦車軍団第1大隊A中隊第1分隊(指揮:フランク・ミッチェル少尉) 
    - マークIV 雄型:1輌
- マークIV 雌型:2輌
 
遭遇した両軍はほぼ同時に互いに気づいたが、機銃しか持たない雌型2輌はA7Vにより撃破された。ミッチェル少尉指揮の雄型はすかさず反撃し、ビルツ少尉搭乗のA7Vに直撃弾を与えた。イギリス戦車はドイツ戦車と違い、戦車戦の発生を想定していなかったために徹甲弾を積載しておらず、搭載していた榴弾ではA7Vの装甲を貫通できなかった[注 1]。しかしA7Vの乗員は誘爆を恐れて車輌から脱出し、戦闘は終わった。
ドイツ軍側は直撃の衝撃で乗員5名の戦死者を出しているが、戦闘は、
- ドイツ軍側の損害:A7V 1輌中破
- イギリス軍側の損害:マークIV 雌型 2輌撃破
という、戦術的にはイギリス軍側の敗北となった[5]。しかしドイツ側は、戦車を放棄し、歩兵も後退しているので、戦略的にはイギリス側の勝利であった。イギリス軍はこれを教訓として、雌型の片方の機関銃を6ポンド砲に乗せ換えた「雄雌型(ヘルマフロダイト(Hermaphrodite))」の生産を開始するなど、対戦車戦を意識した対策を進める[5]。
世界で二度目の戦車戦は、同日、1輌のマーク A ホイペット中戦車(ホイペットが敵戦車と交戦した唯一の戦闘)が、ドイツ軍のA7Vによって撃破されたものである。
日本でのマーク IV 戦車
第一次世界大戦で1916年(大正5年)から戦車が活躍すると、日本陸軍でもさっそくこの新型兵器に目をつけ、わずか1年後の1917年(大正6年)には戦車の購入を検討している。そこで水谷吉蔵輜重兵大尉がイギリスに派遣され、当初は最新のマーク V 戦車の購入を打診したが、最新技術の集大成であるマークV戦車を売却することをイギリスは許さず、やむを得ず次善の策として、一つ前の型であるマーク IV 戦車を購入することになった。そしてイギリスから輸入されたマーク IV 戦車の雌型の1輌「4637号車」が、操作方法を指導するためのイギリス人将校ブルース少佐1名と下士官4名とともに、1918年(大正7年)10月17日に貨物船静岡丸で神戸港に、そこで積み替え、1918年(大正7年)10月24日に貨物船新潟丸で横浜港に入っている。
日本陸軍では、1907年(明治40年)2月に軍用自動車研究が開始される。1912年(明治45年)6月に「軍用自動車調査委員会」を設置。1915(大正4)年7月には、発達目覚しい軍用自動車の研究や教育や試験を行う機関として、東京の信濃町にあった輜重兵第一大隊内に「軍用自動車試験班」が設立された。
1918年(大正7年)10月28日、輸入されたマーク IV 戦車の雌型が、横浜から汐留(旧新橋駅)までは鉄道で運ばれ、汐留からは信濃町の輜重兵第一大隊へと、イギリス人将兵達の操縦で、夜間に路面の敷石を踏み砕きながら自走して持ち込まれた。その後、マーク IV 戦車の雌型は青山ヶ原の青山練兵場に移され、10月30日から3日間かけて、皇族や将校などを迎えて、イギリス人将兵達の操縦で、公開試験運転が行われた。1918年(大正7年)12月には陸軍自動車学校(1925年(大正14年)設立)の前身となる「陸軍自動車隊」が自動車班から改編・設立され、マーク IV 戦車の雌型はそこで研究されることになる。イギリス人将兵達はいつの頃か勲章を授けられて帰国している。1919年(大正8年)2月、練兵場に坂、穴、鉄条網等で妨害物を設置、摂政宮臨席の下に総合訓練が行われたが、マーク IV 戦車 雌型が穴に落ちて出られなくなり、工兵隊が雪の中ながら5日がかりで救出した。
 
| 年月(和暦/西暦) | 出来事 | 概要・目的 | 関連組織・背景 | 
|---|---|---|---|
| 1907年2月(明治40年) | 陸軍省兵器局と技術審査部、軍用自動車の調査研究の開始 | 陸軍次官が技術審査部長に対し、軍用自動車の軍事利用可能性に関する調査研究を命じる通達を発出。仏ノームオートモビル社から自動車2台を輸入し、試験開始。これが自動車研究の正式な起点。 | 日露戦争での輜重(輸送)力不足の反省から。 | 
| 1912年6月(明治45年) | 軍用自動車調査委員会の設置 | 陸軍省内に委員会を設置(委員長: 軍務局長・田中義一大将 旧8期)。軍用自動車の標準仕様(例: 2トン積み甲号、4トン積み丙号試作)を検討。補助法制定の基盤となる。 | 陸軍省。欧米の自動車技術進展に対応した規格化推進。 | 
| 1914年4月(大正3年) | 陸軍自動車学校の設立が決定。 | ||
| 1915年7月(大正4年) | 軍用自動車試験班の設立 | 東京・信濃町の輜重兵第1大隊内に試験班を設置(班長: 天地知彰少佐 陸士11期、定員外発足)。軍用自動車の研究・教育・試験を担う。 | 輜重兵第1大隊内。第一次世界大戦の影響で欧米技術の急速進展に対応(例: 青島作戦での使用実績)。 | 
| 1917年4月頃(大正6年) | 自動車班の着任・拡大 | 輜重兵第1大隊内の自動車班(約80名)が着任・機能強化。試験班の活動を基盤に、実際の運用試験を推進。 | 輜重兵第1大隊内。欧州大戦後の自動車輸送普及を背景に。 | 
| 1918年3月25日(大正7年) | 軍用自動車補助法の制定 | 軍用自動車の導入・整備を国家補助対象とする法律制定。民間自動車産業との連携を促進。 | 陸軍省主導。調査委員会の成果を反映した制度化。 | 
| 1918年12月1日(大正7年) | 陸軍自動車隊の改編・設立 | 既存の自動車班を改編・拡大して陸軍自動車隊を設立(隊長: 天地知彰少佐 陸士11期)。研究・試験・教育の専門機関として機能。 | 陸軍直轄。補助法制定直後で、試験班の任務を継承。 | 
| 1923年11月(大正12年) | 研究部を設置 | 現 東京農業大学第一高校界隈 。また全国で一番危険な自動車の坂道を設置。 | |
| 1925年5月(大正14年) | 陸軍自動車学校の設立 | 陸軍自動車隊の任務・人員・設備を引き継ぎ、正式な学校として設置(場所: 東京都世田谷区桜丘)。教育部・研究部・練習隊を編成。 | 陸軍直轄。戦間期の軍用自動車・機甲研究の中心機関(1941年に陸軍機甲整備学校へ改称)。 | 
 1925年(大正14年)5月1日に、千葉の陸軍歩兵学校に「歩兵学校戦車隊」が設立されると、同校で教練用に使われていたが、わずか2年後に引退した。 
それ以後、東京九段の靖国神社の国防館(現・偕行記念館)正面入り口左側に設置され、戦時中も遊就館前で屋外展示されていたが、戦後の行方は不明。一説には、遊就館は1945年(昭和20年)5月に空襲を受けたので、その時に被爆してスクラップにされたとも、アメリカ軍が持ち去ったとも(ただし、米軍の日本接収記録では、このマーク IV 戦車についての言及はない)、される。
本車両側面のスポンソン=ケースメート(砲郭)は、雌型なので、雄型よりも小型で薄かった。それからは、機関銃装備の雌型であるにもかかわらず速射砲の砲身のようなものが突出しているが、これはダミーや速射砲に換装した物ではなく、ルイス .303(7.7mm)空冷式軽機関銃の空冷用銃身被筒である(マーク IV 戦車は雄雌ともに、他の型の菱形戦車がヴィッカース.303(7.7mm)水冷式重機関銃を装備していたのと異なり、ルイス軽機関銃を装備していた)。両側面のスポンソンの下方には、観音開きの乗降扉があった。
日本陸軍では、マーク IV 戦車のことを、「四號型重戦車」と表記した。
また、仙台の第二師団では、自動貨車のボディにマーク IV 戦車の外観を模した(車体両側面のスポンソンは無い)ハリボテを被せた、「歩四号」と名付けたハリボテ戦車を制作し、模擬戦に用いている。荷台に歩兵を乗せての移動も可能であった。
車両番号について
「4637号車」は、イギリス軍のマーク IV 戦車 雌型の公式シリアル番号(War Department number、略してWD番号)である。これは日本軍による新規登録番号ではなく、輸入時にイギリス側で割り当てられた生産・識別番号である。
番号の概要と確認
- シリアル番号の系列: マーク IV 戦車のシリアル番号はタイプ別に分かれている。 
    - Male型(雄型、6ポンド砲搭載):2001–2420(420台)。
- Female型(雌型、機関銃搭載):4501–5095(595台)。
- Tank Tender(無武装補給型):別系列(例: 7001–7205)。
 
4637はFemale型の範囲(4501–5095)内に位置し、特に4601–4700番台の製造ロットに属す。このロットは1917–1918年に大量生産されたもので、日本輸出分もここから選ばれた。
総生産1,220台という数字はタイプ別の合計だが、番号はタイプごとに独立して振られているため、4637が「総生産数を超えている」ように見えるのは誤解である。
- 日本輸出との関連: 1918年にイギリスから日本陸軍へ輸出された1輌のマーク IV 戦車 雌型が、この4637号車である。写真や記録で、船上からの荷揚げ時や東京・横浜での展示時にこの番号が確認されており、日本到着後もイギリス製のまま使用された。日本軍はこれを「四號型重戦車」と呼んで研究・訓練に活用したが、独自の通し番号(例:軍籍登録番号)を割り当てた記録は見当たらない。
- 番号の視認性: 公開試験運転初日の10月30日までは車体左側面前部に「横浜ユキ」と書かれていたが、2日目以降は塗り潰された。「4637」の番号は、車体両側面後部に白い文字で書かれていた。他には、車体両側面にデリックによる吊り下げ時の「スリング」位置を示す文字とラインと、右側面中央に「廿七屯」(27トン)とも書かれていた。車体両側面前方のイギリス軍の味方識別用の白・赤・白の縦ストライプは当初から無かった。オリジナルのカーキ色塗装は、後の大正時代末(1925年頃)に、車体全面が四色迷彩に再塗装された。屋根のハッチや排気口などの特徴も標準的なマーク IV 戦車と一致し、日本側改造は確認されていない。
結論:この番号はイギリス軍の生産管理用で、日本軍の車両登録とは無関係である。
輸出例
日本へのマーク IV 戦車 雌型の1輌輸出(前述の4637号車)が有名だが、他に正式輸出は少なく、主にドイツ軍による鹵獲(約50輌回収、うち30輌修復使用)が目立つ。1918年春季攻勢でドイツ軍が運用した好例である。
春季攻勢と鹵獲戦車の投入
第一次世界大戦末期の1918年3月21日から7月18日頃にかけて、西部戦線でドイツ帝国軍が展開した大規模攻勢作戦が、「1918年春季攻勢」(英: Spring Offensive、独: Kaiserschlacht、カイザーシュラハト、皇帝の戦い)である。
この作戦は、ロシア革命による東部戦線の崩壊後、ドイツ軍が兵力を西部に集中させ、アメリカ軍の本格参戦前に連合国(主にイギリス・フランス軍)を撃破し、戦争を有利に終わらせることを目的とした。
総兵力約330万人のドイツ軍が、毒ガス攻撃やシュトゥルムトルッペン(Sturmtruppen)戦術を駆使した奇襲を仕掛け、初期段階ではアミアンやイーペルで連合国を後退させ、パリ近郊まで迫る成功を収めた。
主要な作戦(Unternehmen、ウンテルネーメン)フェーズには、ミヒャエル(Michael)(3月)、ジョルジェット(Georgette)(4月)、ブリュッヒャー=ヨルク(Blücher-Yorck)(5月)などが含まれる。しかし、連合国側の反撃と補給線の延伸により、ドイツ軍は消耗を強いられ、7月までに攻勢は失敗に終わり、代わりに連合国側の「百日攻勢」を招くこととなった。死傷者数はドイツ側約68万人、連合国側約80万人に上る。連合軍(主にイギリス軍)は約200輌の戦車を失った。これらは主にマーク IV型で、ドイツ軍の急速進撃により泥濘地帯で立ち往生したり、機械故障で放棄されたものが大半であった。
ドイツ軍は、1917年11月のカンブレー戦でマーク IV 戦車を大量(約70輌)に鹵獲していた。ドイツ軍の保有するマーク IV 戦車の大半はカンブレー戦で鹵獲されたものである。これらはドイツの装甲部隊(例:Schwere Kampfwagen-Abteilung 11/Beute)に組み込まれ、1918年春季攻勢で初めて実戦投入された。春季攻勢中に連合軍の戦車をさらに鹵獲した事例もあり、総計で約170-200輌の連合軍戦車を鹵獲しているが、マーク IV 戦車が主力であった(ドイツ軍は、カンブレー分+春季攻勢分で、約40-50輌(累積)を運用)。
この攻勢において、ドイツ軍は鹵獲した連合国側の戦車を積極的に投入し、戦局に影響を与えた。特に、Operation Michael(3月21日~4月上旬)の初期段階でドイツ軍は連合国領土を突破し、鹵獲マーク IV 戦車がドイツのシュトゥルムトルッペンを支援する形で初使用された。戦車の遅さと信頼性の低さから、急進する歩兵に追いつきにくかったものの、火力支援として活用された。少なくとも13輌(一部の記録では30輌以上)が戦場に投入され、機関銃支援や毒ガス攻撃の援護に活用された。以降、4月のリズ攻勢(第2次イーペル戦)や10月のカンブレー第2次戦まで使用が続いた。
鹵獲戦車は「Beutepanzer、ボイテパンツァー」と称され、自国製のA7V(生産数わずか20輌)と併用された。具体例として、マーク IV 雄雌型「Fritz」号が春季攻勢でドイツ軍の攻撃を支援した記録があり、Operation Georgetteのイーペル周辺戦闘でも鹵獲マーク IV 戦車が連合国側に混乱を引き起こした。
これらの鹵獲戦車はドイツ軍の機動力を一時的に高め、突破作戦に寄与したが、機械的信頼性の低さ(頻繁な故障発生)や予備部品の不足により長期運用は困難を極めた。結果として、攻勢全体の失敗要因の一つとなり、戦車戦の初期段階における鹵獲車両の即時活用が戦局を変える可能性を示す好例となった。ドイツ軍はこの経験を活かし、自国戦車開発を加速させるきっかけともなった。
鹵獲戦車の名称
ドイツ軍は第一次世界大戦中の鹵獲戦車(Beutepanzer、主にイギリス製マーク IV 型)に1輌ごとに名前を付けていたわけではない。主な識別方法は番号(例:"Wagen 118" や "No. 155")や軍籍番号で、運用上の管理を優先していた。ただし、一部の著名な車両や記念的なものには、乗員や部隊が独自に名前を付ける慣習があり、写真や記録に残る例が存在する。これは自国製のA7V(全20輌に名前付け)ほど体系的ではなく、散発的なものであった。
主な例:
- Fritz:マーク IV 戦車の雄雌型(ヘルマフロダイト)の鹵獲車に付けられた名前。1918年の春季攻勢(Operation Michael)中にドイツ軍が使用し、写真記録が多く残っている。
- Heinz:マーク IV 戦車 雄型(Male)の鹵獲車に付けられた名前。1918年5月の春季攻勢でドイツ軍が運用し、乗員写真が残っている。
 ドイツ軍の鹵獲戦車(Beutepanzer)運用では、番号管理が主であるが、こうした名前付けは士気向上のための慣習であった。 
鹵獲戦車の武装
第一次世界大戦中、ドイツ軍は鹵獲したイギリス製Mark IV戦車の武装を変更した例が複数確認されている。これは主に、イギリス製弾薬の補給不足を解消するための措置で、標準的な運用ではなく、一部の車両に限定されていた。
主な変更点
砲の交換:マーク IV 戦車 雄型(Male)の標準武装である2門の6ポンド(57 mm)砲を、ドイツ製の57 mm マキシム=ノルデンフェルト(Maxim-Nordenfelt)砲に置き換えた。これにより、ドイツ軍の既存弾薬を使用可能にし、運用効率を向上させた。
雌型(Female、機関銃のみ)については、武装変更の記録が少なく、元のルイス機関銃を維持したケースが主流である。ルイス機関銃用の弾薬(.303)は鹵獲分で対応可能だったため、多くはそのまま運用された。
数輌だが、ルイス機関銃の前方銃座を13 mm対戦車ライフル(T-Gewehr)に置き換えた例もある。
1918年秋に訓練用としてドイツ本土(ベルリン近郊)で使用された1輌(No. 155)が、MG08/15(軽量版MG08)を搭載した写真記録があるが、これは装甲部隊の訓練 detachment で使用され、戦場投入ではなくテスト目的であった。
機械的信頼性の低さから、マーク IV 戦車の内部スペースや冷却システムがMG08(水冷式、重い)の設置に不向きであったことと、また、鹵獲直後の即時運用を優先し、複雑な換装を避けた結果、ほとんどの鹵獲戦車(Beutepanzer)はルイス機関銃を保持した。写真証拠(例:Wagen 118)でも、MG08に見えるものは誤認(木材や油缶の偽装)と判明している。
その他の改造:武装以外では、車体にドイツ軍の鉄十字マーク(Balkenkreuz)を塗装して味方誤射を防ぐほか、エンジンや駆動系の修理が主で、雄雌型(ヘルマフロダイト)のような即席改造も戦場で発生した。ただし、全体の約40輌捕獲分のうち、武装変更は少数派である。
 これらの変更は、ドイツの自国製戦車の生産(A7Vは、わずか20輌)が遅れたため、鹵獲車を補完するための即応策であった。春季攻勢(1918年)でこれらを投入したが、機械的信頼性の低さから長期運用は限定的であった。 
鹵獲数に対し運用数が少ない理由
ドイツ軍が第一次世界大戦中に鹵獲した連合軍戦車(主にイギリスのマーク IV型)の総数は約170輌(一部の推定では200輌近く)とされるが、実際に修理・改修して運用できたのは約40-50輌程度に留まった。これは、鹵獲車両の多くが即時運用に適さない状態だったためである。
以下に、主な理由を歴史的事実に基づいてまとめる。
1. 鹵獲車両の損傷状態が深刻だった
連合軍の戦車は、ドイツ軍の急速進撃(例:1918年春季攻勢のOperation Michael)で泥濘地帯に立ち往生したり、機械故障で放棄されるケースが多発した。これらの車両は戦場で大半が損傷を受け、エンジン故障、履帯破損、装甲貫通などの重傷を負っていた。カンブレー戦(1917年)で鹵獲された約70輌のうち、回収可能な状態のものは半数以下で、残りは破壊されたり、回収不能であった。
結果、鹵獲総数の大半(約70-80%)が修理不能または不経済で、部品取りやスクラップ用に回された。
 2. 修理・改修の技術的・資源的制約 
WWI時代の戦車は機械的信頼性が低く、マーク IV 戦車もエンジンの出力不足(約3.3 hp/トン)や内部高温(50 ℃超)で故障しやすかった。修理には専門工房(例:ベルリン近郊のダイムラー(Daimler)工場)が必要だったが、ドイツの工業資源は弾薬・航空機生産に集中しており、鹵獲車の全修復は不可能であった。イギリス製部品の補給も難しく、武装換装(6ポンド砲→57 mm マキシム=ノルデンフェルト(Maxim-Nordenfelt)砲)すら一部限定。
運用された40-50輌は、主にカンブレー捕獲分を基に1918年初頭に修理されたもので、春季攻勢で投入。追加捕獲分も同様に、即時運用可能なものだけ選抜された。
 3. 運用面の課題(乗員・補給・戦略) 
乗員訓練の不足:マーク IV 戦車の操作は複雑(乗員8人)で、ドイツ人乗員の適応に時間がかかった。鹵獲戦車(Beutepanzer)部隊(例:Abteilung 11/Beute)は12人編成であったが、訓練用に回す車両が増え、戦場投入を制限。
補給の難しさ:燃料・潤滑油・弾薬の互換性が低く、鹵獲弾薬だけでは持続運用ができなかった。戦車の低速(最大6 km/h、悪路で1.6 km/h)も、シュトゥルムトルッペン支援に限界を生じた。
戦略的優先順位:ドイツは自国製のA7Vをわずか20輌しか生産せず、鹵獲依存であったが、総帥部は対戦車兵器開発を優先。鹵獲車はテストやプロパガンダ用に一部温存され、全運用を避けた。
 要するに、鹵獲数は多かったものの、WWI戦車の脆弱さとドイツの資源制約で「質の高い運用」は少数に絞られた。この経験は、戦後ドイツの戦車(Panzer)開発に活かされた。 
第一次世界大戦時のドイツ軍戦車部隊の番号体系
ドイツ帝国陸軍の戦車部隊(Kampfwagen-Abteilungen)は、第一次世界大戦末期の1917年末(10月頃)から1918年末(9月頃まで)にかけて「Sturmpanzer-Kraftwagen-Abteilung」(突撃戦車自動車部隊)として体系的に編成され、後(1918年10月頃)に「Schwere Kampfwagen-Abteilung」(重戦車部隊)と改称された。
この改称は、部隊の運用効率化と鹵獲戦車の統合を目的としており、戦況の変化(連合軍の反攻強化)により、重戦車任務を明確化するためであった。
部隊番号は順番に振られたが、自国製戦車(主にA7V)専用部隊には、1-10号(Nr. 1-10)が先に割り当てられ、鹵獲戦車(Beutepanzer、ボイテパンツァー、主にイギリス製 マーク IV 戦車)専用部隊(Beute)には、11-16号(Nr. 11-16)が割り当てられた。
鹵獲戦車専用部隊(Beute)が11号(Nr. 11)から始まる理由は、1-10号(Nr. 1-10)が自国製戦車(主にA7V)専用の部隊として先に割り当てられたためである。
第一次世界大戦は、1918年11月11日午前11時(フランス時間)に西部戦線で休戦協定が結ばれ、戦闘が終了。
1918年11月17日に全部隊が解散された。
番号配分の全体像
- Nr. 1-10:A7V部隊
これらは1917年末から1918年初頭にかけて編成された主力装甲部隊で、自国製のA7V(生産数わずか20輌)を運用するためのものである。
計画ではA7V用に10個部隊の編成を想定していたが、A7Vの開発・生産遅延と資源不足により、3個部隊(1-3号の各部隊には5輌+予備のA7Vを配備)のみが実現しただけで、春季攻勢などに投入された。
これらの部隊は「Schwere Kampfwagen-Abteilung Nr. 1-10」と呼ばれ、鹵獲戦車部隊(Beute)とは区別された。
- Nr. 11-16:鹵獲戦車部隊(Beute)
A7V生産の遅れと鹵獲マーク IV 戦車の大量入手(カンブレー戦で70輌超)から、1918年3月以降に新たに編成された追加枠である。番号がNr. 11から始まるのは、既存のNr. 1-10をA7V専用に固定したためで、鹵獲車は「別カテゴリ」として後続番号を割り当てた。合計6部隊で約40輌のマーク IV 戦車を運用し、A7V部隊の補完役となった。
例: Nr. 11(Abteilung 11/Beute)は1918年3月8日編成で、A7V部隊の編成完了後にすぐに開始。
なぜこのような配分か?
- 編成の時系列: A7V部隊(Nr. 1-10)はA7Vの試作・生産段階で先に組織化(1917年秋頃)。鹵獲戦車部隊(Nr. 11-16)は1918年春季攻勢直前に急遽編成され、番号の空きがなかったため、連続でNr. 11から始まる。
- 組織的区別: ドイツ軍総帥部(ルーデンドルフら)は、自国製と鹵獲車を分離管理。A7Vは「正規装甲力」、鹵獲車(Beute)は「即席補完」として扱われ、番号体系もそれを反映。
- 結果: 総戦車部隊はNr. 16までで、戦争終結時に解散。鹵獲車依存の弱点を露呈し、戦後のドイツの戦車開発に影響を与えた。
第一次世界大戦時のドイツ軍の鹵獲戦車運用部隊
第一次世界大戦(1914-1918年)末期にドイツ帝国陸軍が編成した、連合軍から鹵獲した戦車を運用するための専門部隊について記述する。
主にイギリスのマーク IV 戦車を修理・改修して使用し、1918年の春季攻勢などで歩兵支援に投入された。これらの部隊は、ドイツ軍の自国製戦車生産の遅れを補うための即席の措置として機能したが、機械的信頼性の低さや補給の難しさから運用規模は限定的であった。
背景
第一次世界大戦中、ドイツ軍は1917年のカンブレー戦などでイギリスのマーク IV 戦車を大量に鹵獲した。これらの鹵獲戦車(Beutepanzer、ボイテパンツァー)は、ドイツ軍の装甲部隊の主力として活用されることとなった。自国製のA7Vは生産数がわずか20輌に過ぎず、鹵獲戦車依存の度合いが高かった。
1918年3月以降、鹵獲車専門の部隊として「Sturmpanzer-Kraftwagen-Abteilung」(突撃戦車自動車部隊)が編成され、後に「Schwere Kampfwagen-Abteilung (Beute)」(重戦車部隊(鹵獲))と改称された。総計6つの部隊(Nr. 11からNr. 16)が組織され、合計約40輌のマーク IVを運用した。
これらの部隊は、主にベルリン近郊のダイムラー工場などで修理・訓練が行われ、西部戦線に派遣された。改修内容は最小限で、車体に鉄十字を塗装し、一部の武装をドイツ製(57 mmマキシム=ノルデンフェルト砲)に換装した。運用された戦車は雄型(砲搭載型)と雌型(機関銃搭載型)の混合で、泥濘地帯での低速性(最大6 km/h)が課題となった。
部隊一覧
鹵獲戦車運用部隊は1918年3月から順次編成され、春季攻勢の各フェーズで投入された。以下に主な部隊を挙げる。
※Sturmpanzer-Kraftwagen-Abteilung = シュトゥルムパンツァー・クラフトヴァグン・アプタイリング
全体の意味:「突撃戦車自動車部隊」
※Schwere Kampfwagen-Abteilung (Beute) Nr. XX = シュヴェーレ・カンプ(フ)ヴァグン・アプタイリング (ボイテ)・ヌル・XX
全体の意味:「重戦車部隊(鹵獲)第XX号」(Nr. XXの部分は番号、例:Nr. 11なら「第11号」)。「第XX鹵獲重戦車部隊」と訳してもよい。
- Schwere:シュヴェーレ (重い/重装備の)
- Kampfwagen: カンプ(フ)ヴァグン (戦車)
- Abteilung: アプタイリング (部隊/大隊)
- (Beute): (ボイテ) (鹵獲/戦利品)
- Nr.XX: ヌル (Nummerの略、番号)
Schwere Kampfwagen-Abteilung (Beute) Nr. 11
- 編成: 1918年3月8日、ベルリン近郊で編成。指揮官はアドルフ・ラインハルト・コッホ大尉。
- 装備: マーク IV 戦車 雌型 5輌(Nr. 101-105)。後に雄型 2輌に交換。
- 作戦経歴: 1918年3月21日のミヒャエル作戦(春季攻勢第1フェーズ)で初投入、ソンム川流域で歩兵支援。4月のリズ攻勢(ジョルジェット作戦)では泥濘で不投入。5月のブリュッヘル攻勢、7月のマルヌの戦い第2次、10月のカンブレー第2次戦で使用。総戦闘日数は50日未満で、故障多発。
- 特徴: 部隊の基幹としてA7V部隊と連携。代表的な鹵獲車「Fritz」号(雄雌型)がこの部隊で運用された。
Schwere Kampfwagen-Abteilung (Beute) Nr. 12
- 編成: 1918年3月下旬。
- 装備: マーク IV 戦車 雌型中心の5-7輌、一部を雄型に換装。
- 作戦経歴: 1918年4月のリズ攻勢で予定されたが泥濘で不投入。7月15日のマルヌの戦い第2次で第3軍予備として3輌投入、7輌喪失。
- 特徴: 初期の暫定的な部隊として機能。
Schwere Kampfwagen-Abteilung (Beute) Nr. 13
- 編成: 1918年4月、指揮官はコルプ中尉。
- 装備: マーク IV 戦車 雄雌型 6輌、一部でT-Gewehr(対戦車ライフル)追加。
- 作戦経歴: 1918年5月のブリュッヘル攻勢でラインズ-ショーニー間突破支援。10月のカンブレー第2次戦でイギリス軍のマーク V 戦車と交戦。
- 特徴: Nr. 11から「Hedda」号を譲受。
Schwere Kampfwagen-Abteilung (Beute) Nr. 14
- 編成: 1918年5月。
- 装備: マーク IV 戦車 雄型中心の5輌、57 mm砲換装。
- 作戦経歴: 1918年5月のジョルジェット作戦後期でイーペル支援。7月のマルヌの戦い第2次で3輌投入。代表車「Heinz」号(雄型)。
- 特徴: 火力強化に重点。
Schwere Kampfwagen-Abteilung (Beute) Nr. 15
- 編成: 1918年7月。
- 装備: マーク IV 戦車 雄雌型 4-6輌、鉄十字マーク(Balkenkreuz)塗装。
- 作戦経歴: 1918年10月8日のカンブレー第2次戦(ニエルグニエ)で反撃待機、マーク IV 戦車同士の戦車戦に参加。
- 特徴: 後期編成で訓練重視。
Schwere Kampfwagen-Abteilung (Beute) Nr. 16
- 編成: 1918年9月。
- 装備: マーク IV 雌型 5輌、最小改修。
- 作戦経歴: 1918年10月のカンブレー第2次戦予備、投入少なくテストが主。
- 特徴: 戦争終結直前の部隊。
影響と遺産
これらの部隊はドイツ軍の装甲戦力を一時的に強化したが、鹵獲車の故障率の高さ(70%以上)と補給不足から、春季攻勢の失敗要因の一つとなった。1918年11月の休戦で全部隊は解散し、残存車両はスクラップや記念展示に回された。この経験は、ヴァイマル共和国期のドイツ戦車開発の基盤を形成した。
重戦車部隊(鹵獲)第11号の戦い
重戦車部隊(鹵獲)第11号、または、第11鹵獲重戦車部隊((独: Schwere Kampfwagen-Abteilung (Beute) Nr. 11、Abteilung 11/Beute)は、第一次世界大戦末期の1918年にドイツ帝国陸軍が編成した鹵獲戦車専門部隊である。
主にイギリスのマークIV戦車を修理・改修して運用し、春季攻勢などの突破作戦で歩兵支援に使用された。ドイツの自国製戦車(A7V)の生産が遅れたため、こうした鹵獲戦車(Beutepanzer)部隊が重要視され、合計6つの類似部隊(Nr. 11~16)が編成された。
重戦車部隊(鹵獲)第11号は、鹵獲依存の限界(故障多発、補給難)を象徴する部隊として歴史的に注目される。
編成と指揮官
- 編成日: 1918年3月8日、Sturmpanzer-Kraftwagen-Abteilung Nr. 11(突撃戦車自動車部隊第11号)としてベルリン近郊で編成。乗員の訓練はダイムラー工場などで実施された。
- 改称: 1918年10月2日、Schwere Kampfwagen-Abteilung (Beute) Nr. 11(重戦車部隊(鹵獲)第11号)に改称。これはドイツ軍の装甲部隊再編の一環で、A7V部隊と並行して組織された。
- 指揮官: アドルフ・ラインハルト・コッホ(Adolf Reinhard Koch)大尉。1918年5月から11月(戦争終結)まで唯一の指揮官を務め、鹵獲車の運用経験豊富な人物である。
装備
部隊の主力はカンブレー戦(1917年)などで鹵獲したイギリスのマーク IV 戦車である。初期は雌型(Female: 機関銃中心)が中心であったが、徐々に雄型(Male: 砲搭載)を追加した。改修内容は最小限で、車体に鉄十字マーク(Balkenkreuz)を塗装し、一部武装をドイツ製(57 mm マキシム=ノルデンフェルト砲)に換装した。総保有は5~7輌程度で、機械故障により運用可能数は変動した。
 
| 時期 | 主な戦車 | タイプ | 備考 | 
|---|---|---|---|
| 1918年3月中旬(初期) | Nr. 101, 102, 103, 104, 105 | マーク IV 戦車 雌型(5輌) | すべて雌型。鹵獲直後の修理品。 | 
| 1918年4月初旬 | 2輌の雌型を雄型に交換 | マーク IV 戦車 雄型(2輌追加) | 雄型で火力強化。 | 
| 1918年5月 | "Bremen" (Nr.102 "Hedda"), "Käthe" | 雌型(1輌)、雄型 (1輌) | 運用可能輌のみ。他は故障。 | 
| 1918年5月末 | "Hedda"譲渡 | - | 重戦車部隊(鹵獲)第13号へ移管。 | 
作戦経歴
重戦車部隊(鹵獲)第11号の初投入は春季攻勢で、以降の攻勢で支援役を担ったが、マーク IV 戦車の低速(最大6 km/h)と泥濘耐性の低さから、歩兵の急進に追いつけず効果が限定的であった。総戦闘日数は50日未満で、鹵獲車特有の故障(エンジン過熱、履帯破損)が多発した。
1918年3月21日: Operation Michael(春季攻勢第1フェーズ)
初の実戦投入。ソンム川流域で第17軍の歩兵を支援し、連合軍防衛線突破に寄与した。5輌のマーク IV 戦車 雌型が火力支援(機関銃掃射)を実施した。
1918年4月初旬: Operation Georgette(Lys攻勢、第2次イーペル戦)
第42歩兵師団所属の第2ロタリンゲン歩兵連隊第131号(42. Infanterie-Division 2. Lothringische Infanterie-Regiment Nr. 131)を支援予定(フランドルズ地方)。しかし、雨後の泥濘地で戦車が即座に立ち往生し、戦闘投入できず撤退した。
1918年5月27日: Blücher-Offensive(第3フェーズ)
第7軍の第7予備師団(7. Armee 7. Reserve-Division)を支援(Reims-Chauny間)。鹵獲マーク IV 戦車で歩兵の塹壕突破を援護した。フランス軍の反撃で一部損失を被った。
1918年7月15日: Second Battle of the Marne(マルヌの戦い第2次)
第3軍総軍(AOK 3)の予備軍として投入。連合軍の反攻を食い止めようとしたが、機械故障で効果薄く、部隊の消耗を加速した。
1918年10月: Second Battle of Cambrai(カンブレー第2次戦)
最後の作戦。Cambrai近郊で反撃に参加。鹵獲車がイギリス軍のマーク V 戦車を相手に交戦したが、連合軍の優位で部隊は壊滅的打撃を受け、戦争終結時に解散した。
影響と解散
重戦車部隊(鹵獲)第11号はドイツ軍の装甲戦力の約半分を担ったが、鹵獲車の信頼性不足から長期運用ができず、1918年11月11日の休戦で解散した。
アバディーンのマーク IV 戦車
アバディーン陸軍兵器博物館の屋外展示品で、WWI時代のイギリス製マーク IV 戦車 雌型。屋外露出による劣化が進んでいるが、保存状態は比較的良好である。
WDナンバーは「4633」(博物館の公式記録による)。元の名前は「Britannia」。
WWI中(1917年)にフランドル戦線で使用された後、カナダとアメリカで戦時国債販売のための宣伝ツアー(Victory Loan Parade / Liberty Loan parades)に参加。
1918年2月にニューヨーク、4月にボストンなどで展示された。
1918年2月23日、ニュージャージー州フォートディックスでの訓練中に事故を起こしている。
1919年、名前を「Liberty」に改め、米陸軍兵器博物館(当時のアバディーン陸軍兵器庫)のコレクションに加わり、テスト・評価目的で使用された後、展示品となった。
登場作品
映画
- 『トランスフォーマー/最後の騎士王』
- オートボットの1人であるブルドッグが変形する。
アニメ
 
   - 『ガールズ&パンツァー 最終章』
- サメさんチーム(船舶科チーム)の使用戦車として雄型が登場し、大洗女子学園戦車道チーム9輌目の戦車として「冬期無限軌道杯」に参加する。元々は大洗女子学園艦の最深部にあるBAR「どん底」にて、燻製器として使用されていた。発見時には既に2名で操縦が可能なように駆動系が改造されており、最低5名で運用が可能だった。
- 『のらくろ』
- 1970年のTVアニメ版で猛犬連隊と敵対する敵軍(豚軍、山猿軍)の戦車として登場(ただし、マークVの可能性もある)。
ゲーム
- 『War Thunder』
- 2025年のエイプリルフールイベント「The Great War」の報酬車両として、ドイツ帝国鹵獲車両「Beutepanzer IV(雄型)」が実装。
脚注
注釈
- ^ 搭載砲のオチキス QF 6ポンド戦車砲は、元々が艦砲なので、後世のオードナンス QF 6ポンド砲と違って徹甲弾・榴弾双方は最初から用意されているが、この当時徹甲弾は未搭載だった。
出典
参考文献
- 『世界の「戦車」がよくわかる本』 株式会社レッカ社 ISBN 978-4-569-67338-7
- 『[決定版]世界の戦車FILE』 Gakken ISBN 978-4-05-404936-9
関連項目
「マーク IV 戦車」の例文・使い方・用例・文例
- その朝,マークはまるで空が彼の上に落ちてくるかのように感じた
- 彼女はデンマーク出身で演劇を教えている.それ以上は知らない
- マークが去って以来,そのピアノはほこりが積もっているだけだ
- だれかと思えば!ベティとマークじゃないか!
- よく見れば,テーブルに製作者のマークがあるのがわかりますよ
- マークⅡ型機関銃
- これらのXマークは地雷がある場所を表す
- いい選手は常に2人もしくは3人でマークされる
- マーク・トゥエインは作家や飲み仲間の集まりに出入りした
- 歴史がマークが唯一学校で好きな科目だ
- マークがノーベル文学賞を受賞することになった
- 先週マークはハーバードに願書を提出した
- マークは学期末レポートに取りかかった
- マークにレポートを返しながらケリー先生は「興味深かったですよ」と言いました
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