マーク D 中戦車
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| マーク D 中戦車 | |
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マーク D 中戦車。写真左側が前方。車体前方の傾斜した上部構造物は、固定戦闘室であり、旋回砲塔ではない。武装は、戦闘室の正面と左右に、機関銃 3挺。
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| 開発史 | |
| 開発者 | フィリップ・ジョンソン少佐 |
| 製造業者 | Mechanical Warfare Department |
| 諸元 | |
| 重量 | 20 t |
| 全長 | 9.14 m |
| 全幅 | 2.26 m |
| 全高 | 2.8 m |
| 要員数 | 3 名 |
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| 装甲 | 8-10 mm |
| 主兵装 | Hotchkiss 7.7 mm機関銃×3 |
| 副兵装 | - |
| エンジン | アームストロング・シドレー・ピューマ ガソリン |
| 懸架・駆動 | ワイヤーロープ式 |
| 行動距離 | 320 km |
| 速度 | 37 km/h |
マーク D 中戦車(マーク D ちゅうせんしゃ、Medium Tank Mark D)は、第一次世界大戦末期にイギリス陸軍が開発した試作中戦車である。
概要
軍事理論家J.F.C.フラーの「作戦計画1919(Plan 1919)」に基づき、高速機動を重視した歩兵支援型中戦車として設計された。
重量20トン以下、最高速度32 km/hを目標とし、水陸両用機能も検討されたが、戦後の軍縮により量産は中止。試作車数輌のみが製造され、1923年に開発が終了した。
後の戦車設計に影響を与えたが、ヴィッカースD型中戦車(Vickers Medium Mark D、1929年製造、アイルランド向け別設計)と混同されることがある。
開発経緯
作戦計画1919
1918年5月、J.F.C.フラー中佐(後の少将)は、西部戦線での最終攻勢を想定した革新的な戦略「作戦計画1919」を提唱した。これは、従来の塹壕戦による人的損耗を避け、機械化部隊を活用した高速突破戦を主眼としたもので、後のドイツのブリッツクリーク戦術の先駆けとされる。計画の核心は、敵陣地を突破し、敵の指揮系統と補給線を崩壊させることで、全体的な崩壊を誘発することであった。
計画は3段階の攻撃フェーズで構成された。
- 第1フェーズ(浸透):中戦車部隊(約3,000輌)が狭い正面で夜間または霧に紛れて敵線を潜入。航空機による精密爆撃と偵察で支援され、敵の後方(砲兵陣地や通信拠点)を急襲。重戦車は使用せず、機動性を優先。
- 第2フェーズ(突破):成功した浸透点で歩兵と重戦車(約2,000輌)が主力となり、突破口を拡大。化学兵器や煙幕を活用し、敵の反撃を封じる。
- 第3フェーズ(包囲):機械化歩兵と騎兵が敵の側面・後方を包囲。航空優勢を活かした連続攻撃で、敵軍を孤立・分断。総勢5,000輌以上の戦車、1,000機以上の航空機、機械化輸送部隊を投入し、1週間以内の決定的勝利を目指した。
フラーは、この計画で中戦車の役割を強調:重量20トン以下、最高速度20 mph(約32 km/h)、旋回砲塔と機関銃中心の武装を要求。従来の重戦車(マーク I-V)の速度不足(最大8 km/h)を克服し、敵後方での独立行動を可能にするとした。
計画はカンブレー戦(1917年)の戦車成功から着想を得たが、連合軍の人的・物的資源枯渇を考慮し、機械化による「人的浪費の終焉」を掲げた。
総予算は膨大で、英国単独では負担が重く、米軍との共同運用を想定。
しかし、1918年11月の休戦協定により実施されず、戦後の軍縮で幻に終わった。
この理論は、1920年代の戦車開発と1930年代の機動戦思想に多大な影響を与えた。
試験と改修
開発は機械戦部(Mechanical Warfare Department)のドリス・ヒル試験場で進められ、フィリップ・ジョンソン少佐が主導。
ジョンソンは戦前にファウラー社(John Fowler & Co.、イギリスの農業機械メーカー)の耕耘機エンジン(蒸気駆動の大型農業機械)で経験を積んでおり、特にワイヤーロープ駆動システムの設計・運用ノウハウを有していた。この経験を活かし、戦車のサスペンションに鋼鉄製ワイヤーロープを応用、ローラー(車輪)をロープで柔軟に連結し、不整地での安定走行と高速機動を実現する革新的な機構を提案した。
マーク V 戦車での事前試験で、このサスペンションが時速20 mph(約32 km/h)を達成することを確認した。
1918年10月、設計着手。
休戦協定直前に木製モックアップが完成し、戦車隊員に披露された。戦後、フラーは陸軍省で水陸両用機能を追加要求。10輌の試作発注(ファウラー社4輌、ヴィッカース社6輌)が行われたが、軍縮で資金削減。1919年6月、初号機完成。
初号機はアームストロング・シドレー・ピューマ(Armstrong Siddeley Puma)航空エンジン(240 hp)を搭載し、平地23 mph(37 km/h)、下り坂28 mph(45 km/h)を達成。ワイヤーロープ式サスペンションが良好な評価を得た。水陸両用試験のため、ヴィッカース社製2輌を改修:マーク D*(幅2.57 m、1919年末)とマーク D**(幅2.7 m、1920年)。マーク D**はクリストチャーチ(Christchurch)川で成功裏に航行、安定性を示した。
1921年、ロールス・ロイス・イーグル(Rolls-Royce Eagle) VIIIエンジン(360 hp)搭載の生産計画が浮上。陸軍評議会は当初75輌を発注(100万ポンド予算)したが、45輌、20輌と縮小。最終的にD Modified (DM)として3輌のみが、王立造兵器廠(Royal Ordnance Factory, ROF)で製造された。DMは指揮官用追加キューポラと脱出ハッチを備えたが、運転手の視界を阻害する欠点があった。
1923年、ヴィッカース中戦車 Mk.Iの試験開始により、マーク Dの信頼性不足(サスペンションの複雑さ)が露呈。ジョンソン設計部は3月に解散、開発終了。マーク Dは「作戦計画1919」の象徴として歴史に残ったが、実戦投入はされなかった。
装備
マーク Dは細長い車体で、前部に円筒形固定戦闘室を配置。エンジン・変速機を後部に置き、重量配分を最適化した。運転席は戦闘室後方にオフセット、キューポラ下に位置。屋根が前方に傾斜し視界を向上させたが、高い障害物越えは後進を前提とした。トラックはワイヤーロープで連結、旋回時の柔軟性を確保。
基本仕様は以下の通り。試作車は軟鋼製リベット車体で、マーク Iの菱形型から脱却した近代的設計である。
| 項目 | 詳細 |
|---|---|
| 重量 | 20トン |
| 寸法 | 全長9.14 m、全幅2.26 m、全高2.8 m |
| 乗員 | 3名(車長/砲手、操縦手、機銃手) |
| 装甲 | 8-10 mm(軟鋼製、リベット接合) |
| 主武装 | なし(固定戦闘室にオチキス 7.7 mm機関銃 ×3) |
| 副武装 | なし |
| エンジン | アームストロング・シドレー・ピューマ(Armstrong Siddeley Puma) 水冷V型12気筒ガソリンエンジン(240 hp、初期型) / ロールス・ロイス・イーグル(Rolls-Royce Eagle) VIII(360 hp、DM型) |
| 変速機 | 機械式、ウィルソン(Wilson)エピサイクリック式変速機(前進4速、後退1速) |
| サスペンション | ワイヤーロープ式(ローラー間連結、Fowler耕耘機由来) |
| 性能 |
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武装は機関銃のみで、雄型(6ポンド砲搭載案)は未実現。ワイヤーロープ式サスペンションは、マーク V戦車 雌型をベースに改修して製造された試作高速実験車で事前試験され、20 mph(32 km/h)達成を確認。
バリエーション
- マーク D:基本試作型。アームストロング・シドレー・ピューマ(Armstrong Siddeley Puma)エンジン、10輌発注(うち数輌完成)。
- マーク D*(1919年):幅広改修、水陸試験用。不安定で海軍拒否。
- マーク D**(1920年):さらに幅広、クリストチャーチ川試験成功。水陸両用基準。
- D Modified (DM)(1921-1922年):3輌生産。ロールス・ロイス(Rolls-Royce)エンジン、コマンダーキューポラ追加。固定戦闘室に脱出ハッチ。
- 軽歩兵戦車(Light Infantry Tank)(1921年):軽量派生型。全長6.78 m、重量17.5トン、Hall Scottエンジン(100 hp)、速度48 km/h超。水陸両用、Snake Tracks(球関節トラック)採用。
- ライト・トロピカル・タンク(Light Tropical Tank)(1922年):インド視察後開発。重量5.5トン、Taylorエンジン(45 hp)、速度24 km/h。前部運転・エンジン、後部二連MGタレット。軽装甲の熱帯用。
- 補給戦車(Supply Tank):ライト・トロピカル・タンクベースの補給車型。貨物室代替、1920年代演習使用も未量産。
これらの派生型は、ジョンソンの実験精神を反映し、後の軽戦車開発に寄与した。
保存車両
マーク D本体は解体されたが、関連部品と試験記録が残る。軽歩兵戦車(Light Infantry Tank)のコンセプトは後の水陸両用戦車に影響を与えた。アメリカのT1中戦車は、マーク Dの高速理論を参考にした。
関連項目
- マーク D 中戦車のページへのリンク