サリナス (戦車)
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TNCA サリナス 戦車 | |
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サリナス 戦車の図面
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種類 | 重戦車(プロトタイプ) |
原開発国 | Template:国旗画像 メキシコ |
運用史 | |
配備期間 | 1917年 |
配備先 | メキシコ軍 |
関連戦争・紛争 | メキシコ革命(試験のみ) |
開発史 | |
開発者 | アルベルト・レオポルド・サリナス・カランサ |
開発期間 | 1917年 |
製造業者 | TNCA |
製造期間 | 1917年 |
製造数 | 1輌 |
諸元 | |
重量 | 15-20トン |
全長 | 6.5 m |
全幅 | 3.0 m |
全高 | 2.5 m |
要員数 | 6-8名 |
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主兵装 | 37 mm または 47 mm オチキス ガトリング砲(5砲身) |
副兵装 | 7 mm オチキス機関銃 4-6挺 |
エンジン | Aztatl 80 hp ディーゼル、または、Hispano Suiza 150 hp ガソリン |
懸架・駆動 | ロズンベルク式 |
行動距離 | 30-50 km |
速度 | 5-8 km/h |
TNCA サリナス 戦車(スペイン語: TNCA Tanque Salinas)は、1917年にメキシコで開発された、都市部での反乱鎮圧や歩兵支援を目的とした、重戦車のプロトタイプである。
メキシコ革命の終盤に国立航空機製造工場(Talleres Nacionales de Construcción Aeronáutica、略称:TNCA)で製造され、ラテンアメリカ初の国産戦車として知られる。
名の由来
サリナス 戦車の名称の由来となった人物は二人いる。
一人は、メキシコ軍の航空士官である、サリナス戦車の設計者の、アルベルト・レオポルド・サリナス・カランサ(Alberto Leopoldo Salinas Carranza)少佐(1892年頃生まれ)。ベヌスティアーノ・カランサ大統領の甥。メキシコ革命期に軍に入隊し、メキシコの航空史のパイオニアであり、メキシコ初の軍用航空部隊の設立やTNCAの設立(1915年)や航空学校の創設に貢献した人物で、戦車の名称は彼に由来する。戦車設計の経験はなかったが、航空機技術を応用し、航空機用エンジンや部品を流用し、英国のマーク I 戦車もしくはマーク IV 戦車を参考にした菱形車体を採用した。
もう一人の、アルベルトのいとこである、グスタボ・アドルフォ・サリナス・カミーニャ(Gustavo Adolfo Salinas Camiña)は、メキシコの軍人・航空のパイオニアで、メキシコ革命(1910-1920年)および第一次世界大戦(1914-1918年)の時代に活躍。
1893年7月19日、メキシコ・コアウイラ州クアトロ・シエネガス生まれ。1964年3月5日、同地で70歳にて死去し、クアトロ・シエネガス市営墓地「Panteón Municipal San José」に埋葬された。
父は軍人であるホセ・エミリオ・サリナス・バルマセダ将軍(Jose Emilio Salinas Balmaceda)。メキシコ革命の指導者ベヌスティアーノ・カランサ(Venustiano Carranza)の義兄弟(cuñado)で、カランサの妻の姉妹の夫だった。このつながりが彼の軍歴に影響を与えた。
初等教育後、ニューヨークのモイサント航空学校(Moisant Aviation School)で学び、1912年11月にパイロット資格を取得。メキシコ初の軍用パイロットの一人で、フランシスコ・イダルゴ・イ・ソビア(Francisco I. Madero)大統領により、5人の将校の一人として米国に派遣された。
メキシコ革命期(1910-1920年)に彼は憲法主義派(Constitutionalist Army)の航空部門で中心的な役割を果たし、航空戦の先駆者となった。革命の混乱期に航空技術を軍事に活用し、数々の戦闘で貢献した。
1913年2月、少尉(Subteniente)。Maderoに航空支援を申し出、チワワ州でパスクアル・オロスコ(Pascual Orozco)派と戦闘。カランサ知事に航空訓練を提案し、憲法主義軍の参謀部に加入。
1913年7月、戦闘参加。カンデラ(Candela)攻略(7月8日)、モンクローバ(Monclova)攻略(7月10日)、マデラ駅戦(7月15日)、トルヘオン攻撃(7月25日-8月5日)。
1914年2月10日、大尉(Capitán 1°)。アルバロ・オブレゴン(Álvaro Obregón)将軍の部隊に配属。
1914年4月9日、トポロバンポ海戦(Batalla de Topolobampo)。世界初の航空機による海上船攻撃を実施。マーティン・プッシャー型機でオロスコ派の蒸気船「グエレロ(Guerrero)」を爆撃、シナロア州トポロバンポ湾で敵艦隊を撃退。テオドロ・マダリガ(Teodoro Madariaga)と共に行い、メキシコ史上初の航空海戦として知られる。これにより、軍艦「タンピコ(Tampico)」の攻撃を防いだ。
1914年4月14日、敵艦上空偵察飛行中、爆弾投下。
1914年5月18日、少佐(Mayor)。偵察飛行中の事故で重傷を負うが、奇跡的に生存。
1914年後半、砲兵長(Jefe de Artillería)。パンチョ・ビリャ(Doroteo Arango, Pancho Villa)派との戦闘を指揮。
1915年1-11月、多数の戦闘参加。サカテスコ(Zacatelco, 1月2-3日)、プエブラ防衛(1月5-20日)、トゥスパン戦(3月20日)、サクアルコ戦(4月13日)、グアダラハラ攻略(4月16日)、レオン攻略(5月5-6日)、セロ・デル・ガヨ戦(7月6日)など。ソノラ州でマーティン機を修理し、ナボホアでプロパガンダ飛行を実施、マイオ族から部隊を募集。
1915年4月13日、中佐(Teniente Coronel)。
1915年12月16日、大佐(Coronel)。アグア・プリエタ防衛(11月1-3日)、ノガレス攻略(11月26日)など。
この時期、彼はメキシコ航空軍の基盤を築き、革命の勝利に寄与。航空機の修理・整備、プロパガンダ飛行、無線装備の導入を推進した。第一次世界大戦(1914-1918年)との関連直接的な戦闘参加はないが、WWI期に国際的な視野を広げた。
1916年8月22日 - 1917年3月28日、メキシコ大使館の軍事付員としてフランスに駐在。西部戦線を視察し、ベルギー軍の組織を研究。WWIの航空・砲兵技術を学び、メキシコ軍に還元。
1917年3月21日、旅団長(General Brigadier)に昇進。この経験は後年の航空開発に影響を与えた。
第一次世界大戦中、メキシコは中立を保っていたが、彼のフランス駐在はメキシコの軍事近代化に間接的に寄与している。後年のキャリアと遺産革命後、航空部門の責任者(1921-1925年)となり、国産機「Sonora」などの開発を推進。第二次世界大戦中は軍事航空局長として「201飛行隊(Escuadrón 201)」を組織、フィリピンで戦った。最終階級は師団長(General de División)で、メキシコ空軍初の師団長。射撃チャンピオンとしても知られ、フランス・米国・ペルーから勲章を受けた。彼の功績は、メキシコ航空史の象徴として評価されており、特にトポロバンポの爆撃は「世界初の航空爆撃」として記録されている。
両者は、航空学校の同窓生としても共に行動。両者は、1912年にニューヨークのMoisant Aviation Schoolでパイロット訓練を受け、メキシコ初の軍用パイロットの一群を形成した。
サリナス家の軍事貢献は革命全体に及び、グスタボの父Jose Emilio Salinas Balmacedaもカランサの義兄弟として関与。
グスタボも、TNCAのチームメンバーとして、戦車の開発・組立に関与したと記録されている。TNCAは航空部門が主だが、革命期に戦車プロジェクトを担い、GustavoはエンジニアJuan Guillermo VillasanaやFrancisco Santariniらと協力。グスタボの航空・機械工学スキルが、戦車の推進システムや構造設計に寄与した可能性が高い。ただし、グスタボの主な業績は航空戦(例: 1914年のトポロバンポ海戦での初の航空爆撃)で、戦車プロジェクトは補助的役割。
革命中、グスタボは憲法主義軍の航空・砲兵部門で活躍(1914-1915年の多数の戦闘参加)。サリナス戦車は1916-1917年に設計され、グスタボのフランス駐在(1916-1917年、WWI視察)直後に完成。両者の活動はカランサ派の軍事近代化戦略で連動し、グスタボのWWI技術知識がTNCAのプロジェクトに間接的に影響を与えた。
開発の背景
第一次世界大戦中、欧州で戦車が登場したニュースが世界に広がる中、当時のメキシコはメキシコ革命(1910-1920年)の終盤の混乱期にあった。
限られた資源で国産戦車を自作した背景には、欧州の戦車ブームとナショナリズムの高揚があった。
憲法派政府(ベヌスティアーノ・カランサ政権)は、パンチョ・ビージャやエミリアーノ・サパタらの反乱勢力を抑える(威圧する)ためと、また、ツィンメルマン電報事件(1917年)で米国との緊張が高まったことで、軍事自立を推進し、軍事力の強化を急いだ。
航空機製造を主とするTNCAが戦車開発に転用され、1917年にプロトタイプが完成。
試運転では、泥濘地での不具合やエンジン過熱が頻発したが、サリナス少佐の楽観的なリーダーシップと乗員の熱意がプロジェクトを支えた。
米国が本格的な戦車を保有していなかった時期に(M1917軽戦車は1918年)、メキシコが先行して北米大陸初の国産戦車を完成させたことは、注目に値する。
生産は1輌のみで、量産には至らなかった。
構造
メキシコの工業基盤が貧弱だったため、簡素で即席的な構造になった。
サリナスは菱形型車体を採用し、超壕能力を重視した設計である。
主兵装は、車体前面に37 mm または 47 mm オチキス ガトリング砲(5砲身)を装備。限定旋回方式。
装甲は薄く、信頼性に課題があった。
エンジンはAztatl 80hpディーゼル、または、Hispano Suiza 150hpガソリン。
航空機用ガソリンエンジンを流用する大胆な設計と、簡素な装甲設計は、資源不足の中での創意工夫の反映と、当時の技術的制約を物語る逸話として知られる。
運用
実戦投入の記録はなく、試験のみとされる。戦後、1920~30年代をバルブエナ空軍基地のゲートガードとして勤め、その後、スクラップ処分された。
一部では、メキシコ革命末期やクリステロ戦争(1926-1929年)での使用を想像する都市伝説も存在するが、証拠はなく、史料では確認されていない。
影響
サリナスは、単なるプロトタイプを超え、メキシコの軍事技術史における意欲的な一歩、メキシコの軍事産業の先駆けとして評価される。このプロトタイプは軍事史の逸話として残っている。
第二次世界大戦期には、米国からメキシコに、M3/M5スチュアート軽戦車が少数供与されたが、これも限定的な使用に留まり、現在は退役済みである。
現代のメキシコ軍(メキシコ陸軍および国家防衛省)は、現代の主戦車(MBT: Main Battle Tank)や重戦車を保有・運用しておらず、代わりに、装輪式および装軌式の装甲車や軽装甲車両を中心に装備を構成している。これらは主に国内治安維持、対麻薬カルテル作戦、災害対応に使用されている。
主な装甲車両:
- ERC-90 F1 Lynx: フランス製の6輪装輪装甲車(90mm砲搭載)。偵察や軽歩兵支援に使用。
- AMX-VCI: フランス製の装軌式装甲兵員輸送車(APC)。旧式だが一部現役。
- Panhard VCR: 装輪式装甲車で、対戦車ミサイルや機関砲を搭載。
- DN-XI: メキシコ国産の軽装甲車両。主に国内治安任務用。
その他、HMMWV(ハンヴィー)や国産の軽装甲トラック(例: Sandcat)が使用されている。
メキシコ軍が戦車を保有しない理由:
- 地政学的要因: メキシコは米国やグアテマラなど隣国との大規模軍事衝突のリスクが低く、戦車のような重装備の必要性が低い。
- 軍事戦略: メキシコ軍の重点は国内治安維持(麻薬カルテル対策や反乱鎮圧)であり、機動性が高い装輪装甲車が適している。
- 予算と産業: 戦車の開発・維持には高コストがかかり、メキシコの軍事予算や産業基盤では装甲車に注力する方が現実的。
現代では、軍事史ファンやオンラインコミュニティで「ラテンアメリカ初の戦車」としてカルト的な人気を集め、3Dモデルやイラストが共有されている。
脚注
関連項目
- サリナス_(戦車)のページへのリンク