ヴィッカース歩兵戦車
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「ヴィッカース中戦車 Mk.I」の記事における「ヴィッカース歩兵戦車」の解説
1920年、歩兵部隊は軽歩兵戦車を要求する計画を立てた。 戦車設計局のフィリップ・ジョンソン大佐は、中戦車 Mk.Dからそうした形式の戦車を作り出した。 1921年、競争試作として、ヴィッカース社は3両の軽歩兵戦車を開発・生産する契約を結んだ。 この「ヴィッカース歩兵戦車」はイギリス初の軽戦車でもあった。 最初の試作車は1921年12月までに準備が整い、2番目の試作車は1922年7月に準備が整った。 王立装甲軍団第2大隊に研究施設(1928年に「MWEE」(機械戦実験施設)に改名)が設立され、送られた。 ヴィッカース社の設計はいまだに大戦時の形式を思わせるものだった。これは背が高く、菱形の形状を取り、軌道フレームに側面ハッチを設けていたが、いくつか改善点も示されている。全周旋回式の砲塔がつき、縦置き式渦巻ばねの緩衝装置が設けられていた。 一方でマークC中戦車はなお固定戦闘室であり、緩衝装置もなかった。ヴィッカース社の戦車はマークC中戦車よりもっと小型で、全高はちょうど7フィート(2.13m)、車重はたった8.5ショートトン(7.71t)だった。本車は、戦闘室と機関室の区画を分けて、機関室に収容された86馬力のエンジンの動力を、より先進的な油圧式ウィリアムス・ジェニー変速装置により変速して駆動した。これは限りなく多様な曲率での旋回を可能とした。 最初の試作車両(ヴィッカース歩兵戦車 No.1、後の登録番号 MWEE 7)は3挺のオチキス機関銃を備えた「雌型」バージョンである。2番目の試作車両(ヴィッカース歩兵戦車 No.2、後の登録番号 MWEE 15)は機関銃1挺を降ろし、そこに3ポンド(47 mm)砲を備えた「雄型」で、対空射撃用に機関銃を1挺備えていた。 本車は、前任の車両達よりも、はるかに近代的な戦車に見えた。砲塔、戦闘室前面、また車体前面には、全て強い曲面を備えていた。しかし進化した変速装置はまるで信頼性がないことが判明し、1922年晩冬に計画は破棄された。 ヴィッカース社は3番目の試作車を製造せず、代わりに18ポンド(84 mm)野砲用の運搬車を製造した。「18ポンド砲運搬車」(Vickers 18-pdr Transporter 1922)と名付けられたこの車両の開発は、1922年3月に始まった。車体後面に下開きのランプがあり、車輪付きの火砲をそのまま搭載し、運搬することができた。この車両は「ヴィッカース歩兵戦車」とは何の共通点もなく、他のどの車両と比較しても革新的であった。失敗作の「ヴィッカース歩兵戦車」は忘れ去られ、ヴィッカース社は「18ポンド砲運搬車」のシャーシ(足回り)を流用して戦車を製造する命令を受けた。これが、「ヴィッカース軽戦車 Mk.I」となった。
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