本多忠相とは? わかりやすく解説

本多忠相

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/10 19:39 UTC 版)

 
本多忠相
時代 安土桃山時代から江戸時代前期
生誕 慶長4年(1599年
死没 天和2年2月26日1682年4月3日
別名 清三郎(幼名)、修理
墓所 東京都港区虎ノ門三丁目(西久保)の天徳寺塔頭の和合院→千葉県袖ケ浦市代宿の乗蓮寺
官位 従五位下美作
幕府 江戸幕府旗本書院番頭留守居役
主君 徳川秀忠徳川家光徳川家綱
三河西端領主(旗本・8000石)
氏族 本多彦八郎家
父母 父:本多康俊、母:菅沼定盈の娘
兄弟 本多俊次本多忠相、本多俊昌
本多俊之、本多景次、妹(前田利孝室)
正室:稲垣重綱の娘
本多忠将(長男)、中西忠良(次男)
本多忠清(三男)、娘(近藤用将室)
娘(大久保忠時室、のちに離縁)
娘(堀田一輝室)、娘(武田信貞室)
娘(佐久間勝豊室)
養女:大久保忠時の娘(横山元知室)
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本多 忠相(ほんだ ただすけ)は、江戸幕府旗本三河西端領の初代領主。西端藩本多彦八郎家初代。

生涯

慶長4年(1599年)、下総国下篠郷で本多康俊の次男として生まれる。父の康俊は、徳川四天王の筆頭・酒井忠次の次男であるため、忠相は忠次の孫に当たる。また、忠相と父・康俊の兄・酒井家次は伯父・甥の関係にあたる。

徳川秀忠時代

大坂の陣両陣に父とともに参加した。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、父とともに近江膳所城を守備した。翌年の大坂夏の陣では、父、兄とともに戦いに参加して武功を挙げる。

その戦功により、元和2年(1616年)に三河国碧海郡に1000石を賜り、西端村(現・碧南市)に陣屋を構える。以後、上総国下総国内に2500石、碧海郡1500石が加増された。

徳川家光時代

寛永元年(1624年)には、下総国香取郡において500石が加増された。寛永5年(1628年)には、上総国、下総国内において2000石が加増された。寛永7年(1630年)には、三河国碧海郡内1500石が加増された。

寛永9年(1632年)には、書院番頭に昇進した。翌寛永10年(1633年)には、安房国、上総国内で3000石を賜い、合計8000石の上級旗本となる。寛永15年(1638年)には、徳川幕府下で初めて検地を実施した。

徳川家綱時代

明暦2年(1656年)には留守居役に就任した。寛文12年(1672年)、長男・忠将に家督を譲って隠居した。天和2年(1682年)に84歳で死去した。

先代
-
西端本多家当主
初代
1616年 - 1672年
次代
本多忠将




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