貿易商業事業
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「中野半左衛門 (景郷)」の記事における「貿易商業事業」の解説
捕鯨組合設立事業弘化2年(1845年)には、通浦瀬戸崎浦鯨組(捕鯨組)の結成に尽力し、長正寺町に魚市場(せり市場)を新規に設立した。 安政3年(1856年)11月には、見島浦鯨組(捕鯨組)の惣都合人(総支配人)となり、長州藩内の交易に力を尽くした。 明治に入り、木屋川の通船取締役となり、3つの浦の総支配人となり、山口県内の交易に力を尽くした。 特に、木屋川河口付近の船着場には、半左衛門自身が私財を投じ蔵を建て物資の備蓄を可能にしたため、人々が往来し家が立ち並び金比羅様が飾られ遊郭もでき町が形成されて行った。 薩長交易(貿易)事業明治維新、西洋化の基盤を築いたとして、つとに有名な長州藩の家老である村田清風は、藩政改革を実施し長州藩を諸藩よりも強い雄藩に導いた。この幕末の時期に清風が、財政改革のために起用したのが、白石正一郎や中野半左衛門らの豪商政商達であった。幕末の下関海峡は、西国諸大名にとって交通の要衝であり商業の主軸地域であったため、この改革施策の要の一つとして、監督貿易会社を設置し下関を通過する貿易船を保護、その交易の財務を管理し多額の利益を長州藩にもたらした。このような清風の財政改革により長州藩の財政は再建され、幕末の長州藩における財産を諸藩より堅固なものとし新政府軍の財政支援を十分なものとした。この改革は現在の研究でも高い評価を得ている。 安政5年(1858年)7月、中野半左衛門に薩摩の役人から物資の交易の申し出があり、下関で対談し長州薩摩交易の契約書を交わした。後日、下関新地物産会所(殖産興業政策や各地の特産を専売するために設けられた諸藩の機関 )の役を引き受け、薩摩との通商代表の役割を担った。文久元年(1861年)12月には長州藩の本藩萩藩庁から正式に薩長交易支配人を授かり、薩摩との貿易を支配した。 なお、当地である下関の白石正一郎ではなく、西市(豊浦)の中野半左衛門が、薩長貿易の代表に選抜された経緯は以下に記述(2.2 長州藩及び長州藩士の援護活動 1 幕末長州藩の富商達)する。 その他の藩の役職及び記載すべき系譜文政13年(1830年)11月、小都合役を命じられる。 弘化3年(1846年)、大庄屋(地域の各庄屋全体の政治的統治)を仰せ付かる。 嘉永3年(1850年)7月、真宗西念寺の創建建築工事を完成させる。 安政3年(1856年)6月、勧農産物御内用係を命じられる。 安政5年(1858年)、下関新地物産会所会頭を命じられる。 安政5年(1858年)、大庄屋格となる(殖産事業が多忙となり大庄屋をやめるも、大庄屋格の待遇は一生涯受ける。)。 万延元年(1860年)5月、藩庁から薩摩に藩の代表(支配人)として派遣、相互の主要産物に係る貿易の交渉をまとめる。 文久2年(1862年)2月、肥前藩(長崎県)五島列島との交易を始め、貿易上の協定を決める。 文久3年(1863年)9月、新米入札頭取役を命じられる。 文久3年(1863年)12月、穀物会所頭取役を命じられる。 『半左衛門はこの敢闘力と財力を以て尊王倒幕の志士を援護したのであった。』 — 藤井善門、宮地正人 編(藤井善門 著)『明治維新の人物像』(「中野半左衛門の活動と勤王志士」(四)半左衛門の活動)68頁
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