貿易商ランボー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 21:11 UTC 版)
「アルチュール・ランボー」の記事における「貿易商ランボー」の解説
1880年5月に再びキプロス島に渡り、しばらく土木工事現場で働いた後、主に皮革やコーヒー豆を販売する現地のマズラン=ヴィアネ=バルデ商事に雇用され、アデン(アデン湾に面するイエメン共和国の港湾都市)にある代理店に勤務することになった。12月初旬にバルデ商事がアビシニア(現エチオピア)のハラールに新設した代理店に着任するために、隊商とともに同地に到着。1881年から84年にかけて、ハラールとアデンを行き来しながら交易に従事する傍ら、同地を探検した。 一方、1886年に『イリュミナシオン』の一部が文芸誌に掲載される2年前の1884年に、ヴェルレーヌの『呪われた詩人たち(フランス語版)』第1版が出版された。「隠れた名」トリスタン・コルビエール、「ほとんど未知の名」アルチュール・ランボー、そして「無視された名」ステファヌ・マラルメを世に知らしめることになった書物である。ヴェルレーヌは本書「アルチュール・ランボー」の章に「母音」「夕べの祈祷」「坐っているやつら」「びっくり仰天している子ら」「虱をとる女たち」「酔いどれ船」の全文とその他数編の抜粋を掲載した。とりわけ「Aは黒、Eは白、Iは赤、Oは青、Uは緑」と母音(文字)を色彩で表現した「母音」は若い象徴派詩人の関心を呼び、大論争となった。1888年には風刺文芸誌『レ・ゾム・ドージュルデュイ(フランス語版)』にランボーに関するヴェルレーヌの記事が掲載され、マニュエル・リュック(フランス語版)作の表紙画には、文字に色を塗るランボーが描かれている。 バルデ商事は経営難のためにアデン代理店、ハラール代理店を閉鎖し、新代理店再開後に再びランボーを雇用したが、彼は1885年10月にバルデ商事を辞職し(1856年によりエチオピアに併合された)ショア(フランス語版)王国の貿易商ピエール・ラバチュと契約を締結し、紅海を渡ってタジュラ(ジブチ)に着くと、ショアのメネリク2世との兵器取引のための隊商を編成した。様々な困難に遭い、タジュラを発ったのは翌86年の10月初めであった。隊商を率いて4か月かけてアビシニアの砂漠地帯を越え、1887年2月6日にショア王国の首都アンコベールに到着した。だが、すでに同年1月6日にメネリク2世はハラールを併合して同地に住んでいたため、アンコベールから120キロ先のエントト山までさらに移動しなければならなかった。商取引は結局、失敗に終わった。ランボーがハラール滞在中に住んでいた家は、現在も記念館として残されており、来館者は年間約26,000人、大半が外国人である。 1887年7月末にアデンに戻り、その後、約5週間、カイロに滞在した。病気がちであったため仕事には就かず、地元紙やフランスの新聞などに旅行記やアビシニアに関する記事を寄稿した。1888年に入ると再び兵器取引を企てたが失敗に終わった。フランス出身の貿易商セザール・ティアンと提携し、以後数年は通常の商取引で生計を立てた。 1889年、数か月来、右膝の腫瘍に苦しんだ挙句、4月7日に担架でアラールからゼイラに運ばれ、船でアデンに移された。悪性腫瘍が疑われたために帰国。5月にマルセイユに到着し、20日に同地のコンセプシオン病院に入院。25日に右脚切断の手術が行われた。7月に妹イザベルに付き添われてロッシュに戻った。8月23日に再びアデンに向かうためにイザベルとともにマルセイユ行きの列車に乗ったが、病状が悪化したため、コンセプシオン病院に再入院。半昏睡状態が数週間続き、11月10日、全身転移癌により死去、享年37歳。シャルルヴィルに埋葬された。
※この「貿易商ランボー」の解説は、「アルチュール・ランボー」の解説の一部です。
「貿易商ランボー」を含む「アルチュール・ランボー」の記事については、「アルチュール・ランボー」の概要を参照ください。
- 貿易商ランボーのページへのリンク