アヘン戦争と清の降伏
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「ウィリアム・ジャーディン (船医)」の記事における「アヘン戦争と清の降伏」の解説
ロンドンに到着したジャーディンの最初の業務指令はパルマーストン卿との面会だった。彼はエリオット教区長から教会任務に関する書簡を託されて卿のもとを訪れた。教区長の紹介状には後世では皮肉となった次の一文があった。 「この紳士は長らくわが国の通商界の先頭に立ち、慈善心と公徳心の発露による長い蓄積から、外国人社会の尊敬と期待を一身に集めております。」 1840年にはアジアとイギリスでイギリス人貿易商と実業家数百人の署名を集め、これを武器にジャーディンは議会を説得し対清戦争の予算獲得に成功した。その際戦略と戦術の詳細、清国の政治的要求の内容、必要な兵員、戦艦数などを網羅したジャーディン・ペーパーと呼ばれる戦争の詳細な計画書を提出している。この計画書でパルマーストン卿相手に強調した点は次のとおりである。 1 林則徐が押収した2万ケースのアヘンの完全補償 2 事態の深刻化を避けるための通商条約締結 3 福州・寧波・上海・アモイなどの開港 また、拡張ができて安全も確保しやすいなどの理由で、広州や香港の港や島を占領する必要が高まることをも示唆した。この目的を達成するには陸海軍が適任であることを明言した。この地域の地図と海図も提出した。現代では不評な威嚇外交の先鞭をつけたジャーディンは議会に提出した綿密な報告書の中で次のように述べている。 「正式な購買など不要・・・・・・、退屈な交渉も不要・・・・・・、勅許状がSir F. Maitlandに下され、何であれ必要なら取上げて所有することを許可する。この任務に適任の海陸軍が・・・・・・わが母国から出撃するまで・・・・・・彼の指揮下の艦隊が万事を手際よくやってのける。このすべてが完遂されるとき、次のような言葉により交渉の端緒が開かれる。貴国はわがアヘンを手に入れ、引き換えにわが国は貴国の島を手に入れる。これぞ偉大な両国に相応しい。以後貴国が望むならわれわれを友好的コムニオンとして住まわせよ。貴国は海岸線を海賊から守ることができない。我々にはできる。そこで互いに理解しあい、相互の利益促進を追求しようではないか。」 この文書自体にこの男の性格が反映されており、南シナ海海岸地方で最強の貿易商と認知された事情を説明していよう。ウェリントン公の後継外務大臣であるパルマーストン卿はジャーディンの『囁き』により清国との開戦を決定したといってよかろう。1840年代中頃大艦隊が清の海岸地帯に出現した。英国艦ロイヤルサクソンを狙った最初の砲撃を合図にイギリスはアヘン戦争に突入した。イギリス戦艦は海岸の砲台や要塞を次々破壊し、激しい艦砲射撃で市街地を無差別攻撃し、さらに北上して北京の紫禁城を脅かさんばかりの勢いだった。清国政府はイギリスの前に降伏を余儀なくされた。 Richard Hughesは自著 Hongkong: A Borrowed Place, A Borrowed Time のなかで、「ウィリアム・ジャーディンは大班にふさわしい実績を残したが、兵士ならば偉大な勲功を残しただろう」と評している。 1843年、清英両国の当局代表者により南京条約が締結された。清の5大港の開港、清国在留外国人の治外法権、破棄されたアヘンの賠償が認められ、1841年1月26日以来貿易と軍事の拠点として事実上占拠されてきた香港島の公式割譲が完了した。依然として非合法だったアヘンをはじめとして清国との貿易は拡大した。ジャーディン・マセソン商会も成長し、東アジア最大のイギリス系商社として『太子行』(Princely Hong)の名で知られた。 ジャーディンは、アシュバートン市選出の下院議員となり、イギリスでもっとも裕福かつ権勢を誇る人物の一人になった。1843年、59歳の誕生日から3日後にイングランドで死亡した。パルマーストン卿の書簡には、このような一文が残っている。 「貴殿とジャーディン氏による的確な支援と情報に我々は大きく依存し、わが国の海事・軍事・外交関係を築きあげた。この詳細な指示により清では満足のいく結果が得られた。」
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