アヘン戦争が日本列島へ与えた衝撃
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「鳥羽・伏見の戦い」の記事における「アヘン戦争が日本列島へ与えた衝撃」の解説
イギリス東インド会社は清(大清帝国)との貿易で利益を得るため、インド産の麻薬アヘンを清へ密輸した。結果、清でのアヘン輸入は激増、麻薬中毒患者による公衆衛生上の重大問題が発生し、また茶、絹などの輸出でそれまで清側に黒字だった外国銀琉球は、巨額の銀流出での清側の甚大な経済損失にかわっていた。清では雍正帝以来アヘン禁止が祖先伝来のしきたりとされていた。1839年、道光帝はアヘン厳禁論者・林則徐を欽差大臣として広東に赴任させ、イギリス商人のアヘンを没収・廃棄した。イギリスはその外務相ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)の主導で対清開戦に傾いていき、10月1日にメルバーン子爵内閣の閣議で清への遠征軍派遣が決定された。こうして1840年から2年間にわたりイギリスによる清への侵略戦争として行われたアヘン戦争で、欧米列強による植民地主義の脅威を受け、日本列島の隣国・清は敗北した。1842年8月29日、南京に停泊したイギリス戦艦上で、清国の全権大使は戦争をおわらせるためイギリス使節団との屈辱的な南京条約に調印し、清国の半植民地化が確定した。強大な大清帝国が、イギリス軍による強制的な武力行使で西洋に膝を屈し、みずからの中国大陸を外国商人やキリスト教宣教師団へあけわたした――その事実は東アジア全体に衝撃を走らせた。さらに、清帝はアメリカやロシアなどとも同様の不平等条約をむすばされたので、もはやアジア諸国の国事指導者らは、一刻の猶予もなく、西洋諸国をまったくもって無視できなくなった。勿論、清敗北・半植民地化の結果は日本の指導者層にも多大な衝撃を与え、それはとりもなおさず、17年前に著され密かに全国で回し読みされていた会沢安『新論』で警告されていた西洋の帝国主義が、いまや完全にまぢかで現実化し、切実かつ緊急に国政上の判断をせまる内容となった事を意味していた。また、中国大陸でイギリスが使った膨大な火力は幕府が出した異国船打ち払い令の限界も同時に明らかにしており、「外国船へむやみに砲撃をあびせれば、西洋諸国からの痛烈な反撃を引き起こす」と当然の教訓がひろがって、清敗北と同年に、幕府は同法令を廃止した。
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