日朝関係の断絶と緊張
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 08:03 UTC 版)
「明治六年政変」の記事における「日朝関係の断絶と緊張」の解説
「日朝関係史」および「征韓論」も参照 明治維新により王政復古した日本は、明治元年(1868年)、対馬藩を通じて李氏朝鮮に対してその旨を伝える使節を派遣した。しかし、従来天皇の臣下である江戸幕府将軍と対等の関係にあった朝鮮政府を格下と見る風潮があり、この国書には従来の江戸幕府との国書になかった「勅」「皇」の文字が入っていた。このため朝鮮側はこの国書を受け取らなかった。その後交わされた国書では勅の文字は使用されなかったが、明治4年(1871年)に朝鮮の宗主国である清と対等な関係である日清修好条規を締結したことにより、再び上下関係を明確化させようとする動きが強まり、「天子」の文字が入った国書が送られたことで日朝関係は断絶状態となった。 また当時の朝鮮において興宣大院君が政権を掌握して儒教の復興と攘夷を国是にする政策を採り始めたため、これを理由に日本との関係を断絶するべきとの意見が出されるようになった。
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