日朝関係前史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 18:42 UTC 版)
隣国である日本と朝鮮半島との間は歴史的に関わりが深く、戦争や侵略の経験も相互に持った。秀吉が生きていた当時からも大部分は認識されており、現在では以下の外交および軍事的出来事が前史として両国に存在していたことが分かっている。 詳細は「日朝関係史」を参照 663年に、唐・新羅連合軍と大和朝廷・百済連合軍が衝突した白村江の戦いがあり、大和・百済側が敗北した。これ以後、大和朝廷は朝鮮半島への直接介入をやめてしまい、(何度か計画は持ち上がったものの)日本側からは数万に及ぶ大規模な出兵は文禄の役まで約千年間も途絶えることになった。しかし一方で交易は断続的に続けられた。他方、812年から906年までの間、小規模な海賊による新羅の入寇が繰り返され、997年から1001年にかけての高麗海賊による入寇があった。1019年には、高麗(及び傘下の女真族)による刀伊の入寇があった。 1224年から5回に渡って、高麗の金州(現慶尚南道金海市)や巨済島などに初めて倭人の海賊が襲来。後に倭寇と呼ばれる海賊の活動が始まった。高麗は大宰府に海賊取締りを要請し、少弐職にあった武藤資頼は大使の目の前で海賊90名を処刑させた。その後、モンゴル軍の侵攻を受けた高麗は元に降伏。珍島や済州島に逃げた三別抄が1271年に日本に救援を求めるが、無視された。 1274年と1281年に元の軍勢(モンゴル人、南宋人、高麗人)が日本の九州北部を侵攻する、いわゆる、元寇があった。北条時宗の鎌倉幕府が二度に渡って撃退するわけであるが、対馬・壱岐では虐殺や童女・童子をさらって奴婢とするなどの蛮行があった。その後、日本は動乱期を迎えて南北朝時代の1350年頃から倭寇(庚寅倭寇)が活発化したという前後関係から、倭寇は元寇への報復であったという主張が安土桃山や江戸時代に語られていたようだが、倭寇と海賊衆の実態から考えればその指摘は正しくないというのが定説である。むしろ承久の乱で敗者を支持して厳しい立場となった西国武士団が海に活路を求めたのを始まりとし、室町幕府の内紛(観応の擾乱)によっても同様のことが起きて、九州探題今川了俊が南朝勢力を降したときにも、さらに船団で海外に脱出する者が増えたと考えられていて、江戸末期の『日本防考略』でも倭寇をして「日本あふれ」と定義していた。 詳細は「元寇」を参照
※この「日朝関係前史」の解説は、「文禄・慶長の役」の解説の一部です。
「日朝関係前史」を含む「文禄・慶長の役」の記事については、「文禄・慶長の役」の概要を参照ください。
- 日朝関係前史のページへのリンク