俸給米不正支給から暴動へ
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「壬午軍乱」の記事における「俸給米不正支給から暴動へ」の解説
日朝修好条規の締結により開国に踏み切った朝鮮政府は、開国5年目の1881年5月、大幅な軍政改革に着手した。閔妃一族が開化派の中心となって日本と同様の近代的な軍隊の創設を目指した。近代化に対しては一日の長がある日本から軍事顧問として堀本礼造陸軍工兵少尉を招き、その指導の下、旧軍とは別に新式装備をそなえる新編成の「別技軍」を組織して西洋式の訓練をおこなったり、青年を日本へ留学させたりと開化政策を推進した。別技軍には、日本が献納した新式小銃はじめ武器・弾薬は最新式のものが支給され、その隊員も両班の子弟が中心でさまざまな点で優遇されていた。別技軍は、各軍営から80名の志願兵を選抜し、王直属の親衛隊である武衙営に所属させた。 これに対し、旧軍と呼ばれた従来からの軍卒二千数百名は、旧式の火縄銃があたえられているのみで、大半は小部隊に分けられ各州に配備されていた。彼らはなんら新しい装備も訓練も与えられることなく、別技軍とは待遇が異なり、また、しばしば差別的に扱われることに不満をつのらせていた。さらに、5営あった軍営が統廃合により2営(武衛営・壮禦営)となり、その多くがいずれは退役を余儀なくされていた。それに加えて、当時朝鮮では財政難のため、当時は米で支払われていた軍隊への給料(俸給米)の支給が1年も遅れていた。1882年の夏は、朝鮮半島が大旱魃に見舞われ、穀物は不足し、政府の財源は枯渇していた。 1882年7月19日、ようやく13か月ぶりに武衛・壮禦の両営兵士に支払われることになった俸給米はひと月分にすぎなかった。しかし、支給に当たった宣恵庁の庫直(倉庫係)が嵩増しした残りを着服しようとしたため、砂や糠、腐敗米などが混ざっていた。これに激怒した旧軍兵士は倉庫係を襲ってこれに暴行を加え、倉庫に監禁し、庁舎に投石した。ところが、この知らせを受けた担当官僚(宣恵庁堂上)であった閔謙鎬は首謀の兵士たちを捕縛して投獄し、いずれ死刑に処することを決定した。これに憤慨した各駐屯地の軍兵たちが救命運動に立ち上がったが、運動はしだいに過激化し、政権に不満をいだく貧民や浮浪者をも巻き込んでの大暴動へと発展していった。民衆もまた、開港後の穀物価格の急騰に不満をつのらせていたのである。かくして、7月23日(朝鮮暦6月9日)、壬午軍乱が勃発した。これは、反乱に乗じて閔妃などの政敵を一掃し、政権を再び奪取しようとする前政権担当者で守旧派筆頭の興宣大院君の教唆煽動によるものであった。反乱を起こした兵士等の不満の矛先は日本人にも向けられ、途中からは別技軍も暴動に加わった。 7月23日、兵士らは閔謙鎬邸を襲撃したのち、投獄中の兵士と衛正斥邪派の人びとを解放し、首都の治安維持に責任を負う京畿観察使の陣営と日本公使館を襲撃した。このとき、別技軍の軍事教官であった堀本少尉が殺害されている。翌7月24日、軍兵は下層民を加えて勢力を増し、官庁、閔妃一族の邸宅などを襲撃し、前領議政(総理大臣)の李最応も邸宅で殺害された。さらに暴徒は王宮(昌徳宮)にも乱入し、軍乱のきっかけをつくった閔謙鎬、前宣恵庁堂上の金輔鉉、閔台鎬、閔昌植ら閔氏系の高級官僚数名を惨殺した。このとき、閔妃は夫の高宗を置き去りにして王宮から脱出し、その日のうちに忠州方面へ逃亡した。王宮に難を逃れていた閔妃の甥で別技軍の教練所長だった閔泳翊は重傷を負った。 軍兵たちは23日夕刻までに王宮を占拠し、国王からの要請という形式を踏んで大院君を王宮に迎え、彼を再び政権の座につけた。 当時の様子を、朝鮮滞在のロシア帝国の官僚ダデシュカリアニは、以下のように書き記している。 朝鮮は一瞬のうちに、凄まじい殺戮の舞台と化した。父親たちが子供たちに武器を向けたのである。ソウルでは8日間、無差別の流血が止まらなかった。当初は叛徒らが勝利を収めた。進歩派、ならびに当時ソウルに在住した外国人の双方を同時に敵としなくて済むように、彼らは先ず後者に襲いかかった。…(後略) 暴徒は漢城在住の日本人語学生、巡査らも殺害した。
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