日土国交
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 04:57 UTC 版)
「エルトゥールル号遭難事件」の記事における「日土国交」の解説
日本とオスマン帝国の外交当局による国交交渉は何度も行われたが、両者の交渉が暗礁に乗り上げてうまく進まず、結局オスマン帝国の滅亡まで正式な国交が結ばれることはなかった。 1914年(大正3年)、第一次世界大戦が勃発するとドイツ帝国ら同盟国側に引き入れられつつあったオスマン帝国の対外情勢は緊迫し、山田はイスタンブルの店を閉鎖して日本へ帰国した。この戦争でイギリスら連合国の側についた日本はオスマン帝国とは敵同士となり、戦後のオスマン帝国の解体とトルコ共和国の成立という目まぐるしい情勢の変化を経て、1924年(大正13年)発効のローザンヌ条約締結・1925年(大正14年)の大使館開設により、日本政府とトルコ共和国政府は正式に国交を結んだ。
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