国交再開から冷戦終結まで(1952年 - 1989年)
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「日本とキューバの関係」の記事における「国交再開から冷戦終結まで(1952年 - 1989年)」の解説
1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効したことにより、日本は国際社会の一員として復帰した。キューバもサンフランシスコ講和条約に署名した49ヶ国のうちの一国であり、同年8月12日にキューバ国内で同条約が批准され、11月21日には正式に両国間の外交関係が再開された。 1959年1月1日、フィデル・カストロを指導者とする革命勢力が、アメリカ合衆国や西側資本の強い影響下にあったバチスタ政権を打倒してキューバに革命政権を樹立した(キューバ革命)。それまで親米反共のバチスタ政権により弾圧されていた人民社会党(後のキューバ共産党)は、以後、同国で唯一の政権政党となってキューバを統治することになる。フィデルと共に革命に挺身したチェ・ゲバラは、キューバでの革命成就のみを以て足れりとせず後にボリビアに渡航して更なる革命に身を捧げたが、オルトゥーニョ政権側の勢力に捕らえられて、裁判なしの大統領令により銃殺された。革命に殉じたチェ・ゲバラは、当時だけでなく21世紀になってもなお日本や世界でTシャツになるなどして愛され続けている。 キューバ革命の頃には既に資本主義陣営と共産主義陣営が互いに勢力争いをする冷戦構造が出来上がっており、資本主義陣営の盟主であるアイゼンハワー政権のアメリカはキューバでの共産主義政権の樹立を歓迎しなかった。アメリカは革命政権を承認しないだけでは飽き足らず、1961年にはキューバと国交を断絶して(以後、オバマ政権2期目の2015年まで断交が続く)、更には軍事力の行使や暗殺工作などの手段を駆使してフィデル・カストロ政権の転覆を企てた。しかしアメリカによるキューバの政権転覆計画はいずれも奏功せず、キューバの革命政権はソ連邦との関係を強化することで生き残りを図った。1962年の夏頃、ソ連邦からの軍事援助を受けたキューバに核ミサイルおよびその運搬手段が持ち込まれたことで、アメリカとソ連邦の東西対立は頂点に達した。キューバからアメリカのフロリダ州まで約150kmしか離れておらず、ケネディ政権のアメリカはキューバにおける核ミサイル基地の建設を断固として認めなかった。同年11月にソ連邦のフルシチョフ書記長がキューバのミサイル撤去に合意したおかげで、人類は核戦争を回避することに成功した(キューバ危機)。このように、アメリカとキューバとの間で深刻な対立があったにも関わらず、日本はキューバとの国交を断絶せず友好関係を維持する道を選んだ。 1984年11月20日、当時の日本共産党委員長不破哲三がキューバの首都ハバナでフィデル・カストロと会談を行った。当時の国際情勢は冷戦が再び激化しており、共産主義陣営の盟主ソ連邦によるアフガニスタンに対する軍事介入をアメリカや日本など資本主義諸国が侵略であるとして非難する一方で、アメリカも共産主義政権が樹立されたばかりのニカラグアの反共の反政府勢力に対して憚ることなく軍事支援を行っていた(コントラ戦争)。フィデルは、不破に日本の政治や産業に対する諸事情について矢継ぎ早に質問を投げかけ、その一方で、ニカラグアの共産主義政権を倒すために反共勢力への軍事支援を含んだ内政干渉を躊躇なく行う米帝国主義への強い警戒心を吐露した。このフィデルと不破の会談は3時間15分にも及んだ。
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