「日朝」国交交渉の難航とその影響とは? わかりやすく解説

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「日朝」国交交渉の難航とその影響

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:03 UTC 版)

日清戦争」の記事における「「日朝」国交交渉の難航とその影響」の解説

1868年明治元年同治7年)末、日本新政府は、朝鮮王政復古伝え書契渡そうとした。しかし朝鮮は、従来形式異なり文中宗主国清の皇帝だけが使えるはずの「皇」と「勅」の文字があったため、書契受け取り拒否した数年間、日朝国交交渉進展せず、この余波さまざまな形現れた。 詳細は「日清修好条規」、「征韓論」、および「明治六年政変」を参照 1871年明治4年9月13日同治10年7月29日)、対日融和外交主張した李鴻章尽力により、日清修好条規および通商章程締結された。この外交成果利用して日本は、清と宗藩関係にある朝鮮に対し、再び国交交渉臨んだ。しかし、それでも国交交渉進展見られない1873年明治6年同治12年)、国内では、対外戦争招きかねない西郷隆盛朝鮮遣使が大きな政治問題になった結局のところ10月明治天皇裁可朝鮮遣使が無期延期とされたため、遣使賛成派西郷板垣退助江藤新平など5人の参議および約600人の官僚・軍人辞職する事態となった明治六年政変)。翌年2月最初大規模な士族反乱である佐賀の乱起こった詳細は「江華島事件」および「日朝修好条規」を参照 日本政変揺れていた1873年明治6年11月同治12年9月)、朝鮮では、閔妃一派による宮中クーデター成功し鎖国攘夷固執していた摂政大院君国王高宗実父)が失脚したこの機に乗じて日本は、1875年明治8年2月同治14年1月)に森山茂朝鮮派遣したものの、今度服装森山西洋式大礼服着用朝鮮江戸時代和装求める)など外交儀礼を巡る意見対立により、書契交換前に交渉が再び中断した日本朝鮮半島沿岸測量名目軍艦2隻を派遣して軍事的圧力を掛けるも、直接効果がなく、依然交渉停滞していた。同年9月20日光緒元年8月21日)、軍艦雲揚」が江華島周辺停泊していたところ、朝鮮砲台から発砲を受け戦闘始まった12月11月)、日本は、特命全権大使黒田清隆任命し軍艦3隻などを伴って朝鮮派遣した結果砲艦外交)、翌1876年明治9年2月光緒2年2月)に日朝修好条規調印された。

※この「「日朝」国交交渉の難航とその影響」の解説は、「日清戦争」の解説の一部です。
「「日朝」国交交渉の難航とその影響」を含む「日清戦争」の記事については、「日清戦争」の概要を参照ください。

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