「日国覚書」の発見
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1995年(平成7年)には『山梨県史』編纂事業に際した古文書調査が実施され、富士河口湖町小立の法華宗寺院である常在寺所蔵の新出史料が発見された。これは日蓮宗の聖教である「教機時国教法流布段録」冊子の余白部分に記された「日国覚書」で、聖教とは同筆と鑑定されている。 「日国覚書」は「勝山記・妙法寺記」の原本系統に属する史料から転写された断片であると考えられている。内容は「勝山記・妙法寺記」における延徳3年(1491年)~4年にあたる記事で、諸写本と比較しても多大な内容が記され注目されている。筆者である戒善坊日国は明応5年(1496年)の記事が初見で、永正5年(1508年)には常在寺住職日運の死去に際して妙法寺から移ったと考えられている。明応9年(1500年)に住職となり大永5年(1525年)に死去している。 「日国覚書」発見を受けて大木丈夫や末柄豊、柴辻俊六らが諸本の系統を検討し、相次いで論文が発表された。大木は筆写を日国上人をはじめとるす妙法寺僧とし、旧説の「妙法寺記」を支持した。一方の末柄は「日国覚書」の筆者を日国ほか常在寺の寺宗僧が書き継いだものとした。さらに『勝山記』『妙法寺記』の共通祖本の存在を想定し、書名は「常在寺衆中記」が適当であるとする新見解を示した。柴辻は双説の妥当性を認めつつ、「年代記写」の筆写を日国上人と断定することは慎重視すべきであるとする見解を発表している。 「日国覚書」は『山梨県史 資料編』6中世3上に収録。
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