「日向」の由来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/26 16:24 UTC 版)
文献上で一番時期が古い日向国の名称は、初代神武天皇(かむ やまと いわれびこ)が日向国の吾田村の吾平津媛を妃にしたという逸話に現れる。 神日本磐余彥天皇、諱彥火火出見、彥波瀲武 鸕鷀草葺不合尊 第四子也。母曰玉依姫、海童之少女也。天皇生 而明達、意礭如也、年十五 立爲太子。長 而娶日向國吾田邑吾平津媛、爲妃、生手研耳命。 —日本書紀 また、第12代の景行天皇が子湯縣の丹裳小野を訪れ朝日を見た際に従者に「この国は日の出の方を直に向いている」と述べたことから「日向国」となった逸話があり、景行天皇と御刀媛(みかはしひめ)の息子の豊国別皇子が日向国造の祖となったことも記している。 十三年夏五月、悉平襲國。因以居於高屋宮已六年也、於是其國有佳人、曰御刀媛。御刀、此云彌波迦志、則召爲妃。生豐國別皇子、是日向國造之始祖也。十七年春三月戊戌朔己酉、幸子湯縣、遊于丹裳小野、時東望之謂左右曰「是國也直向於日出方。」故號其國曰日向也。 さらに、壬申の乱で天皇となった第40代天武天皇のあとの律令制により、あらためて西海道の日向国が令制国として成立した。 読みは、日本書紀には「宇摩奈羅麼、譬武伽能古摩(うまならば、ひむかのこま = 馬ならば日向の駒)」とある。 したがって、日向国は古くはひむかのくにであったところ、国造制度で新たな日向国ができ、律令制からのちはひゅうがのくにと呼ばれたと考えることもできるが、「譬武伽」を日向国とするには検討が必要という指摘もある。
※この「「日向」の由来」の解説は、「日向国」の解説の一部です。
「「日向」の由来」を含む「日向国」の記事については、「日向国」の概要を参照ください。
- 「日向」の由来のページへのリンク