「日大文理クーデター」事件と「万場烈士」事件
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「反憲法学生委員会全国連合」の記事における「「日大文理クーデター」事件と「万場烈士」事件」の解説
左翼の間で有名な、いわゆる「日大文理クーデター」事件は、1980年(昭和55年)11月18日に起こった。 日本大学文理学部で映画「脅かされる北の守り」上映会を開催しようとした日本大学反憲法学生委員会約100名(反憲学連首都圏ブロックの応援部隊を含む)と、上映会を「粉砕」すべく現れた日大文理の支配者「銀ヘル」(文理学部闘争委員会)及び学外の他セクト応援部隊約200名が対峙、「銀ヘル」側が鉄パイプを出したのを機に、反憲学連側も黒ヘルと鉄パイプで一斉に武装した。反憲側は、京大での事件を教訓に、「仲間を守るためには相手を殺傷するも已む無し」との決意を固めており、日本刀などで武装した中央委員会直属の特殊部隊まで投入していた。 気迫負けした「銀ヘル」側は撤退し、反憲側はこれを追撃、「銀ヘル追放宣言」を出した。「銀ヘル」側は、その後も学外の他セクト(ブント=共産主義者同盟ほか)を動員し、巻き返しを図ったが結局成功していない。 反憲学連は、1986年(昭和61年)には、「天皇陛下御在位60年奉祝運動」を全国の大学で大々的に展開した。 運動が終了した数日後の12月20日早朝、反憲学連近畿ブロック中堅幹部であった万場世志冶(同志社大学)が旧京都御所敷地内で自刃した。割腹の上、頚動脈を左右に切っており、「皇室と祖国の繁栄を祈る」旨の遺書が遺されていたという。 この数年は、中曽根康弘首相が、歴代首相で初めて「大東亜戦争は侵略戦争」と発言し、靖国神社への参拝も中止、また、「建国記念の日」政府式典に於いては「神武天皇建国」の意義に一切触れない事を指示した。しかし、民族派陣営は中曽根内閣への有効な反撃ができず、自らの組織力不足を思い知らされていたのである。万場の自決は、これらの情況を憂いてのこと(魂魄となって国を護る)と思われた。 遺詠は、 「すめろぎのおほみひかりをさふるよのくもきりはらひいやちこにせむ」 「おほきみのみいつをけがすやつあらばいかづちとなりてとりひしぎてむ」 という実に凄まじいばかりの内容である(他にも数首あり)。 以降毎年12月20日には、万場世志冶烈士追悼慰霊祭が開催されている。 反憲学連は、以上に挙げた以外にも北朝鮮による「松生丸銃撃事件」に対する朝鮮総連への抗議行動や「第18富士山丸事件」への抗議行動、憲法-教育基本法体制解体・日教組定期大会抗議行動、中曽根似非建国式典糾弾行動、藤尾正行文相罷免糾弾行動、中・韓両国による教科書(『最新日本史』)検定への内政干渉糾弾行動等様々な活動を展開してきた。 しかし、平成に入って以降、新たな活動はまったく確認されていない。
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