神功皇后説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 04:52 UTC 版)
『日本書紀』の「神功皇后紀」においては、「魏志倭人伝」の中の卑弥呼に関する記事を引用しており、卑弥呼と神功皇后が同時代の人物と記述している。実際に神功皇后は200年に夫である仲哀天皇を失ってからは60年以上ずっと独身である。さらに弟もいた。また倭国大乱に当たる熊襲の戦いがあり、この戦いの最中に仲哀天皇は崩御した。一説によるとこれは熊襲との戦いでの矢の傷が元であるという。さらには日本書紀で出てくる百済の王の古尓王(234 - 286)も日本書記が示す時期とややずれがあるものの合致している。これを否定する説が井上光貞ほか一部から指摘されている。日本書紀の神功皇后の百済関係の枕流王(在位:384年 - 385年)の記述の部分が卑弥呼よりも120年(干支2回り)あとの時代のものであるためにそのような主張がなされている。しかし百済の王は古尓王(234 - 286)、その子の責稽王(生年未詳 - 298年)などの部分はほぼ日本書紀の記述どおりであり、子孫の枕流王の部分は切り離して考えるべきだとする説もある。さらに肖古王と近肖古王の名前は似ていて神功皇后元年の干支も201年と321年は同じものなので日本書紀の編纂者が誤って近肖古王とその後の系図を当ててしまった可能性も大いにある。実際に日本書紀でも出てくる百済の王の名前は肖古王である。故にいきなりここで120年の時代誤差が生まれたと考えられる。また古事記では応神天皇の時に照古王が肖古王として貢物を献上する。現在でも、倭迹迹日百襲媛命説ほどではないがそれに次いで支持者が多い。また九州説論者でも神功皇后説を採る論者が何名もいる。またこの説の場合、九州各地に伝説の残る与止姫が神功皇后の妹虚空津比売と同一という伝承もあることから、まれにこの人物を台与に同定する者もいる。その亜流として、古田史学の会の代表の古賀達也は与止姫を壱与であると主張している。 問題点 これまでの諸説では多くの場合、神功皇后の説話を古代日本の女性指導者の姿を描いたものと捉え、「鬼道」の語を手掛かりに卑弥呼を巫女として捉えて卑弥呼が政治的・軍事的指導者であった可能性を否定したり、彼女の言葉を取り次いだという男弟が実際の政務を取ったと解釈したりしてきたが、義江明子はそれを批判して、卑弥呼もまた政治的・軍事的な実権を伴った指導者であったとする。義江の論旨は「卑弥呼は単に祭祀を司掌した巫女だっただけでなく、王としての軍事的な実権、政治的な実権をもっていた。弟が政治を担当していたわけではない」ということであって、必ずしも「卑弥呼=神功皇后説」を主張しているわけではない。ただし「鬼道に事(つか)え」たという卑弥呼が巫女王としての色合いが強いのに対して、神功皇后は単に神憑りしたシャーマンに留まらず、勇壮な軍事指揮者という別の側面も同等に強くもっているのは義江の主張するとおりであるが、魏志による限り卑弥呼は宮殿に籠って祭祀に専心している様子は窺えるものの格別に神功皇后のような軍事指揮者としての強い属性があるような記述は一切みられない。
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