神功皇后の治世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/31 07:09 UTC 版)
大々杼黒城の代に至り、仲哀天皇は筑紫の熊襲を征伐するために穴門国豊浦に御幸した。その途中で楯之御前社に参向した際、黒城に跡継ぎがいないことを知って、兄弟の息長田別王を黒城の娘黒媛に婿入りさせ、息長杭俣王が生まれた。天皇が香椎宮で亡くなり、皇后息長帯女命が遺志を継いで三韓に親征する際、楯之御前社大神は神託によって皇后を助けた。還幸後の皇后摂政8年、住吉に御幸した際、楯之御前社と鉾之御前社に神籬を立てて祭った。現在でも住吉大社の第三本宮と第四本宮の左右にこれらの社がある。さらに、武内宿禰が勅使となって楯之御前社に参向し、新たな社殿を建造した。現在、新社地の字を「楯原」、旧社地を「御元」という。また、息長田別王は南方に宮を建て、「百々石城」と名付けて移り住んだ(大々杼名黒の居住地を「名黒」、大々杼黒城の居住地を「黒城」という)。王は狭山池の水を引いて初めて田を作り、息長河を掘って淀川に注がせ、百々石城の前後に門を作り、南を「大手門」、北を「後つ門」と呼んだ。 皇后摂政11年、皇后と皇太子品陀和気命はこの地に御幸し、百々石城から楯之御前社・鉾之御前社に参拝した。そこでこの道を「御幸路」といい、道の北に比礼を立てたのでその地を「比礼田」といい、南方に旗を立てたのでその地を「旗地」といい、建御雷男命の武具を洗った剣洗池で皇后が禊ぎ祓いを行ったので、以後これを「御手洗池」と呼んだ。また、皇后は「楯之御前社」を改めて「楯原神宮」と名付けた。「楯」は「兵士を立て並べる」ことに通じ、「原」は「元」である。これは建御雷男命が軍団の長であったことに由来する。さらに、大々杼黒城と息長田別王を呼び、「大々杼」を改めて「息長」の姓を賜った。 皇后摂政12年、大々杼黒城が亡くなり、「大々杼の久流米の墓」に葬られた。 皇后摂政20年、皇太子品陀和気命が両社に参詣し、このとき息長杭俣王は益郎女を娶り、飯野真黒女命を儲けた。 皇后摂政35年、皇太子品陀和気命が両社に参拝し、これ以降毎年勅使を遣わして参拝することが決定した。 皇后摂政50年、息長田別王が亡くなり、「大々杼の長礼の墓」に葬られた。この墓の名前は後に村名となり、「長礼村」、後に「流町」と呼ばれるようになった。これは現在の平野郷町流町である。 皇后摂政51年、息長杭俣王の娘・息長真若中女命が皇太子品陀和気命の妃となった。同53年、息長杭俣王は百々石城に御殿を建造し、ここで弟女真若伊呂弁王を儲けた。同55年、皇太子品陀和気命と妃息長真若中女命が両社に参拝し、この御殿に一泊した。このとき二昼夜に渡って紫色の雲がたなびいていたので、皇太子は御殿を「紫止雲殿」と命名した。同56年、皇妃息長真若中女命が若沼毛二俣王を生んだ。同62年、皇太子品陀和気命は国平の鉾を倭に返還し、その代わりに楯原神社の境内に小さな松を植えた。この松は「御鉾松」の名で楯原神社に相伝している。鉾之御前社の旧地を現在では「鉾田」という。さらに、息長杭俣王は皇太子の命に従い、新たに社殿を建造して建御雷男命と大国主命を鎮祭した。これが今の楯原神宮である。このとき皇太子は長さ2尺8寸の金幣を献じた。
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