神功46年以降とは? わかりやすく解説

神功46年以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 14:15 UTC 版)

三韓征伐」の記事における「神功46年以降」の解説

神功46年以降は『百済記』が構文されている。神功46年246年または366年3月1日斯摩宿禰を卓淳国に遣す。卓淳王の末錦旱岐は、百済久氐(くてい)、弥州流(みつる)、莫古(まくこ)らが日本朝貢したいと斯摩宿禰伝えた斯摩宿禰は、爾波移(にはや)と卓淳人の過古(わこ)を百済遣した百済肖古王近肖古王)は喜んだ。王は財宝贈り、またをみせて、これらを朝貢したいと爾波移告げ、のち志摩宿禰らは日本帰還した翌年4月百済日本朝貢した。 神功皇后49年249年または369年3月には神功皇后が、将軍荒田別(あらたわけ)及び鹿我別(かがわけ)を卓淳国へ派遣し新羅襲撃しようとするが、兵の増強進言され、百済将軍木羅斤資沙沙奴跪(ささなこ)と沙白(さはく)・盧(かふろ)らに合流命じて新羅破った。比自㶱(ひじほ)、南加羅、㖨国(とくのくに)、安羅(あら)、多羅(たら)、卓淳、加羅の七カ国を平定した。さら西方に軍を進めて、比利(ひり)、辟中(へちゅう)、布弥支(ほむき)、半古(はんこ)の四つの邑は抵抗もなく降伏した神功51年251年または371年3月百済久氐派遣し日本朝貢した。 神功52年252年または372年9月10日百済王は、百済倭国同盟(済倭同盟)を記念して神功皇后七子鏡と七枝刀献上した

※この「神功46年以降」の解説は、「三韓征伐」の解説の一部です。
「神功46年以降」を含む「三韓征伐」の記事については、「三韓征伐」の概要を参照ください。

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