神功皇后の新羅征討とは? わかりやすく解説

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神功皇后の新羅征討

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 14:15 UTC 版)

三韓征伐」の記事における「神功皇后の新羅征討」の解説

夫の仲哀天皇急死200年)後、神功皇后201年から269年まで政事執り行なった。仲哀9年200年3月1日神功皇后齋宮(いはひのみや)に入って自ら神主となり、まずは熊襲討伐した。9月には大三輪の神を祀り軍を集めたその後住吉大神神託で再び新羅征討託宣出たため、対馬の和珥津(わにつ)を出航したお腹子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま海を渡って朝鮮半島出兵して新羅の国を攻めた新羅戦わずして降服降伏)して朝貢誓い高句麗百済朝貢約したという。 渡海の際は、お腹月延石や鎮懐石呼ばれる石を当ててさらしを巻き冷やすことによって出産遅らせた月延石3つあったとされ、長崎県壱岐市月讀神社京都市西京区月読神社福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮奉納また、播磨国風土記逸文には、播磨で採れた顔料原料である赤土(あかに)を天の逆矛あまのさかほこ)や軍衣などを染めたとあり、また新羅平定後、その神を紀伊の管川(つつかわ)の藤代(ふじしろ)の峯に祭ったとある。 皇后帰国後、筑紫宇美応神天皇出産し志免でお紙目代えたまた、新羅鎮めた証として旗八流を対馬上県郡峰町納めた(木坂八幡宮)。 神功皇后三韓征伐の後に畿内帰るとき、自分皇子応神天皇)には異母兄にあたる香坂皇子忍熊皇子畿内にて反乱起こして戦い挑んだが、神功皇后軍は武内宿禰武振熊命働きによりこれを平定したという。 以上が『古事記』『日本書紀』共通する伝承骨子であり、日本書紀には、新羅加えて高句麗百済服属誓ったこと、新羅王王子の微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかんき)を人質にだしたことが記される神功皇后 摂政5年205年または325年3月7日新羅王使者として、汗礼斯伐(うれしほつ)、毛麻利叱智(もまりしち)、富羅母智(ほらもち)らが派遣され人質として倭国渡った微叱旱岐みしかんき)の妻子奴婢とされたので返還求めとしてきた。神功皇后はこの要求受け入れ見張りとして葛城襲津彦新羅使わすが、対馬にて新羅王使者騙され微叱旱岐逃げられた。怒った襲津彦は、毛麻利叱智三人使者焼き殺し蹈鞴津(たたらつ。釜山南の多大浦)から上陸し草羅城くさわらのさし。慶尚南道梁山)を攻撃して捕虜連れ帰った。このときの捕虜は、桑原佐備高宮忍海四つ漢人祖先である。

※この「神功皇后の新羅征討」の解説は、「三韓征伐」の解説の一部です。
「神功皇后の新羅征討」を含む「三韓征伐」の記事については、「三韓征伐」の概要を参照ください。

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