神功紀の紀年とは? わかりやすく解説

神功紀の紀年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:57 UTC 版)

日本書紀」の記事における「神功紀の紀年」の解説

『日本書紀』神功紀・応神紀にはいると飛躍的に外国記述、特に朝鮮半島での出来事倭国朝鮮との関わりについての記述増える。この時期記述には朝鮮史書である『三国史記』と対応する記述があり、また倭国から中国への遣使記録中国王朝正史にあることから、『日本書紀』年次外国史書年次比較することができる。 巻9(神功紀)は39年条に「魏志倭人伝」に登場する倭の女王卑弥呼の遣使記事載せ神功皇后卑弥呼同一人物として描いている。この卑弥呼の遣使は魏の景初3年239年)のことであるため、『日本書紀』神功皇后39年239年設定していることがわかる。そして神功紀には同じく百済の王の崩御即位記事があり、神功皇后55年百済肖古王(214年死亡)又は近肖古王375年死亡)が死亡したこと、神功皇后56年王子貴須(近仇首王375年即位)が即位したこと、神功皇后64年枕流王即位したことなどが記されている。古事記では応神天皇時代に照古王(肖古王又は近肖古王)が貢物献上する話が出てくる。『三国史記』や『東国通鑑』の近肖古王記述に基づくならば近肖古王の死は西暦375年ということになりこれが神功皇后55年対応するここから逆算した場合神功皇后39年359年となり『三国志』から導き出せ紀年はちょう120年差分存在する百済出来事との他の年次の対応も同様である。干支による年次表記では60年ごとに同一干支の年が現れるため、『日本書紀』巻9は神功皇后卑弥呼同一人物とする過程干支二運(120年年代繰り上げていることが知られ、さらにこの120年紀年歪み神功紀の中で調整されるとがないため、外国史書と巻9の間で出来事対照させていくと神功皇后元年西暦201年であるのに対し神功皇后69年崩御時)は西暦389年という年代が得られる。 神功紀の紀年と外国史書との対照日本書紀紀年三国志肖古王基準にした年次三国史記近肖古王基準にした年次日本書紀の記述外国史書記述神功元年 201年 321年 摂政元年 - 神功39年 239年 359年 明帝景初三年六月、倭女王が遣使(日本書紀引用魏志明帝景初二年六月、倭女王が遣使(三国志魏志神功55年 255年 375年 五十五年、百済肖古王死去近肖古王三十年、冬十一月、王が死去三国史記神功56年 256年 376年 五十六年、百済王子貴須が即位近仇首王即位。(三国史記神功64年 264年 384年 六十四年、百済国貴須王死去枕流王即位近仇首王十年、夏四月、王が死去枕流王即位。(三国史記神功65年 265年 385年 六十五年、百済枕流王死去。 二年、冬十一月枕流王死去。(三国史記神功69年 269年 389年 六十九年夏四月十七日(夏四月辛酉丁丑)、神功皇后死去。 - この干支二運繰り上げ説は本居宣長江戸時代に『東国通鑑』との比較から導き出し明治以来議論経て那珂通世によって概ね完成された。ただし、現在でも『日本書紀』編年重視して神功皇后3世紀代に位置付ける説も存在するまた、神功皇后実在性巡って議論続いていることや、単純に神功紀の紀年を干支二運を繰り上げただけでは、神功皇后に続く応神紀の紀年整合性持たないことから、神功紀の紀年はまだ未解決の問題抱えている。

※この「神功紀の紀年」の解説は、「日本書紀」の解説の一部です。
「神功紀の紀年」を含む「日本書紀」の記事については、「日本書紀」の概要を参照ください。

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