神功紀の紀年
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『日本書紀』は神功紀・応神紀にはいると飛躍的に外国の記述、特に朝鮮半島での出来事や倭国と朝鮮との関わりについての記述が増える。この時期の記述には朝鮮の史書である『三国史記』と対応する記述があり、また倭国から中国への遣使記録が中国各王朝の正史にあることから、『日本書紀』の年次と外国史書の年次を比較することができる。 巻9(神功紀)は39年条に「魏志倭人伝」に登場する倭の女王卑弥呼の遣使記事を載せ、神功皇后と卑弥呼を同一人物として描いている。この卑弥呼の遣使は魏の景初3年(239年)のことであるため、『日本書紀』は神功皇后39年を239年に設定していることがわかる。そして神功紀には同じく百済の王の崩御・即位記事があり、神功皇后55年に百済の肖古王(214年死亡)又は近肖古王(375年死亡)が死亡したこと、神功皇后56年に王子貴須(近仇首王、375年即位)が即位したこと、神功皇后64年に枕流王が即位したことなどが記されている。古事記では応神天皇の時代に照古王(肖古王又は近肖古王)が貢物を献上する話が出てくる。『三国史記』や『東国通鑑』の近肖古王の記述に基づくならば近肖古王の死は西暦375年ということになりこれが神功皇后55年に対応する。ここから逆算した場合、神功皇后39年は359年となり『三国志』から導き出せる紀年とはちょうど120年の差分が存在する。百済の出来事との他の年次の対応も同様である。干支による年次表記では60年ごとに同一の干支の年が現れるため、『日本書紀』巻9は神功皇后を卑弥呼と同一人物とする過程で干支二運(120年)年代を繰り上げていることが知られ、さらにこの120年の紀年の歪みは神功紀の中で調整されることがないため、外国史書と巻9の間で出来事を対照させていくと神功皇后元年は西暦201年であるのに対し、神功皇后69年(崩御時)は西暦389年という年代が得られる。 神功紀の紀年と外国史書との対照日本書紀紀年三国志と肖古王を基準にした年次三国史記の近肖古王を基準にした年次日本書紀の記述外国史書の記述神功元年 201年 321年 摂政元年 - 神功39年 239年 359年 明帝の景初三年、六月、倭女王が遣使(日本書紀引用、魏志) 明帝の景初二年六月、倭女王が遣使(三国志、魏志) 神功55年 255年 375年 五十五年、百済の肖古王が死去。 近肖古王三十年、冬十一月、王が死去(三国史記) 神功56年 256年 376年 五十六年、百済の王子貴須が即位。 近仇首王が即位。(三国史記) 神功64年 264年 384年 六十四年、百済国の貴須王が死去。枕流王が即位。 近仇首王十年、夏四月、王が死去。枕流王即位。(三国史記) 神功65年 265年 385年 六十五年、百済の枕流王が死去。 二年、冬十一月、枕流王が死去。(三国史記) 神功69年 269年 389年 六十九年夏四月十七日(夏四月辛酉朔丁丑)、神功皇后死去。 - この干支二運繰り上げ説は本居宣長が江戸時代に『東国通鑑』との比較から導き出し、明治以来の議論を経て那珂通世によって概ね完成された。ただし、現在でも『日本書紀』の編年を重視して神功皇后を3世紀代に位置付ける説も存在する。また、神功皇后の実在性を巡っても議論が続いていることや、単純に神功紀の紀年を干支二運を繰り上げただけでは、神功皇后に続く応神紀の紀年と整合性を持たないことから、神功紀の紀年はまだ未解決の問題を抱えている。
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