倭の五王と『日本書紀』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:57 UTC 版)
「倭の五王」も参照 応神紀以降の紀年においては、『三国史記』との対称と並んで中国史書に登場するいわゆる「倭の五王」の遣使記事との年代比較が重要となる。倭の五王は5世紀と6世紀初頭に中国へ遣使したことが記録されている倭国の王である。 倭の五王の遣使西暦日本書紀紀年中国史書の倭王古事記分註崩御年干支による在位天皇269年 神功皇后69年 倭女王 - 421年 允恭天皇10年 賛(讃) 仁徳天皇 425年 允恭天皇14年 賛(讃) 仁徳天皇(427年崩御) 438年 允恭天皇27年 珍 反正天皇(437年崩御) 443年 允恭天皇32年 済 允恭天皇 451年 允恭天皇40年 済 允恭天皇(454年崩御) 462年 雄略天皇6年 興 - 478年 雄略天皇22年 武 雄略天皇(489年崩御) 502年 武烈天皇4年 武 - 上に見られるように、神功皇后と卑弥呼を同一視する『日本書紀』の編年に基づいて紀年を組み立てた場合、倭の五王の記録と『日本書紀』の歴代天皇の記録は全く合致しない。また、仁徳天皇が長大な在位期間を持つため、神功紀の紀年を120年繰り上げてもやはり全く整合しない。これらの問題についても江戸時代から新井白石によって指摘されていた。 倭の五王の紀年について注目されるのが古事記の崩御年干支である。上に述べた通り、『古事記』は年次を持たないが、現存最古の写本に分注の形で15人の天皇の崩御年干支と崩御月が記されている。この古事記の干支から那珂通世によって西暦換算の年代が割り出されているが、これは5世紀代において『日本書紀』とは合致しないものの、倭の五王の記録とは比較的無理のない整合性を示す。 しかし、この古事記の崩御年干支に基づく年代も『日本書紀』記事中の記録から修正して導き出せる年代とは合致しない。『日本書紀』の応神天皇3年条に百済の阿花王の即位記事があり、これは『三国史記』から392年のことであることがわかるため、阿花王即位を基準に応神天皇元年は390年と導き出せる。しかし、分註崩御年干支に基づく推計では応神41年が394年になる。 雄略天皇については雄略5年が西暦461年にあたることが研究者の間で一致を見ている。これは雄略5年条に百済の武寧王の誕生記事があり、その干支(辛丑)が武寧王陵出土の墓誌の崩御年である癸卯(523年)および年齢(62歳で死亡、辛丑の年から癸卯の年まで還暦を挟んで62年)と整合することによる。 このような問題のため、5世紀頃と推定される歴代天皇の在位期間および絶対年代は現在も完全には確定していない。
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