倭の五王は九州の大王
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 05:52 UTC 版)
「倭の五王」は畿内ではなく九州の大王であったという主張がある。 古事記は、筑紫島(九州)は体は一つで顔が四つあるとしており、4つは筑紫国(白日別)、豊国(豊日別)、肥国(建日向日豊 久士比泥別)、熊襲国(建日別)である。ここに対馬か熊曾国を加えるとすれば5つになる。 「倭の五王」の在位年と『日本書紀』での各天皇の在位年とが全く合わない。また、ヤマト王権の大王が、「倭の五王」のような讃、珍、済、興、武など1字の漢風の名を名乗ったという記録は存在しない、南朝(東晋-梁)側が勝手に東夷の王に漢風の名を付けることなども例が無く考えられないので、「倭の五王」はヤマト王権の大王ではないと仮定する。 畿内地方には多くの巨大古墳が造営されたが、同一の王権が大規模な対外戦争を継続しながら 同時にこのような大規模な巨大古墳の造営を多数行うということは考えられないということにして、畿内地方に多くの巨大古墳を造っていたのは、朝鮮半島で活発に軍事活動を行っていた「倭」からはある程度独立した勢力だったと仮定する。また、古墳文化の広がりをもってヤマト王権勢力の拡大と見なす意見があるが、宗教文化の広がりと権力の広がりとは必ずしも一致するものではないと仮定する。古墳文化の広がりは宗教儀礼の広がりでもあり、これとヤマト王権が結びつくとの意見もあるが 根拠は明確にされておらず古墳文化の広がりを以てヤマト王権勢力の拡大とするには証拠として無理がある。古墳は豪族の墓であり、これが各地で造られたことは中央からは独立した地方勢力の存在を示すものであり、ヤマト王権勢力の支配力が拡大したとする説とも矛盾する。また、この時代は古墳の形態も地域によって特色があり、出雲や吉備等にも独立した勢力が存在したことを示していると仮定する。 『宋書』478年の倭王武の上表文で、「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国」とあるが、倭王武は自らを東夷であると認識しており、通説のように倭を畿内とすると「東の毛人」 = 中部・関東、「西の衆夷」 = 畿内・中国・四国・九州、「渡りて海北」 = ???、となり、比定地を特定することができないこととする(実際は可能である)。しかし倭を九州とすると、「東の毛人」 = 畿内、「西の衆夷」 = 九州、「渡りて海北」 = 朝鮮半島南部となり、比定地の特定が可能であるとする。
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