倭の五王の官職号
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倭王たちは宋帝に半島南部の軍事的支配権を承認してくれるよう繰り返し上申し、武は「使持節 都督 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」を授与された。新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓の統治についての公認を得たものの、百済に関してはついに認められなかった。この理由としては、宋が北魏を牽制するため戦略上の要衝にある百済を重視したこと、倭と対立する高句麗(『宋書』における呼称は高驪)の反発を避けようとしたものと考えられる。また、倭王の将軍号は高句麗王・百済王と比較して常に格下であったが、これも同様に高句麗・百済の地政学的な重要性を考慮したものとする主張があり、特に韓国では、中国の官職制度は、四安将軍→四鎮将軍→四征将軍と昇進するため、高句麗王(「征東(大)将軍」)、百済王(「鎮東(大)将軍」)、倭王(「安東(大)将軍」)軍号には上下優劣関係がある、すなわち、東夷の諸王に正式に除正された地位は、高句麗を最上位とし、続いて百済、最後に倭という序列は、南北朝時代を通じて変わることはなく、その叙任にあたっては三国に対する重要度が反映しており、宋代を通じて三国間に身分の違いがあり、将軍号の序列において百済王より劣る倭王が百済の軍事的支配権を意味する「都督百済諸軍事」号を要求することなど論外という評価がある。朴鐘大は、「同じ時期の冊封が百済は鎮東大将軍であり、倭は序列が低い安東将軍に過ぎないにも拘わらず、百済を包含する韓半島南部を軍事的に支配したというのは論理的に成立しえない主張である」と述べている。これに対して、一見すると序列があるようにみえるが、事実は南朝(東晋・宋)への入貢順に東方将軍号の上位から授けられたもので、南朝側による格付けでもなく、また国際的評価によるものでもなく、三国間に上下優劣の関係はなく、倭に対する評価が高句麗・百済よりも低く、それが「安東(大)将軍」に表れているとみなすことはできないという反論がある。 坂元義種は、南朝が倭王の百済に対する軍事的支配権を承認しなかったのは、北魏を封じ込めるために国際政策上百済を重視し、「南朝が、最強の敵国北魏を締めつける国際的封鎖連環のなかに百済をがっちりとはめこんで、その弱化を認めまいとする、南朝の国際政策」であり、南朝が倭王の席次や軍号が百済王より下位であるため百済に対する軍事的支配権を承認しなかったという主張は、南朝は倭王の軍号を高めて百済の上位にすることはいくらでも可能であるため、「本末転倒した主張」と指摘している。 石井正敏は、倭王が百済王よりも下位であるなら、上位である「鎮東(大)将軍」である百済の軍事的支配権を、下位である「安東(大)将軍」である倭王が執拗に要求しているのは何故かという素朴な疑問が生じることを指摘している。南朝から冊封され、希望する官爵を自称し、除正を求めるだけでなく、部下にも南朝の将軍号を仮授した上で除正を求めている倭王が、南朝の官爵制度を理解していないことは考えられず、百済の軍事的支配権を主張した倭王は「安東(大)将軍」でも「都督百済諸軍事」号要求は可能であることを認識していたと考えざるを得ず、何故なら倭王が、自らの「安東(大)将軍」が百済王の「鎮東(大)将軍」よりも下位であり、「都督百済諸軍事」号要求が不当な要求であることを認識していたならば、百済王と同等の「鎮東(大)将軍」、さらに上位の「征東(大)将軍」を自称し、除正を要求する、あるいは承認されないことを承知の上でも自称するはずであり、それは高句麗との対決を明確にした武は、高句麗王と同等の待遇である「開府儀同三司」を自称し、除正を求めていることからも裏付けられる。 坂元義種は、百済王に鎮東将軍が授与された40年後に高句麗王に百済王よりも上位である「征東将軍」が授与されていることから、任官の先後が、軍号の上下を決定するものではないと主張している。 義熙九年(四一三)、東晋は数十年ぶりに使者を送ってきた高句麗王に征東将軍を授けたが、この将軍号は百済王の鎮東将軍よりも上位のものであった。なお、この間、百済王は咸安二年(三七二)に余句が、太元十一年(三八六)には余暉が、それぞれ鎮東将軍に任命され、また咸安二年・太元九年の朝貢も知られている。このことは、対中交渉の時期や交渉回数の多寡、あるいは任官時期のあとさきが、かならずしも任官内容を決定するものではないことを示しているといえよう。つまり、任官内容を決定するものは、中国王朝の国際政策や諸国に対する国際的評価などであったと思う。 — 坂元義種、倭の五王 これに対して石井正敏は、高句麗王が南朝から将軍号を授与された初見は413年であるが、高句麗の故国原王が355年に前燕に遣使して征東大将軍を授与されていること、また、高句麗王が336年と343年に東晋に朝貢しており、『晋書』には冊封の有無は記録されていないが、同一王(故国原王)による2度の朝貢に際して、朝貢しておきながら、見返りである官爵を求めなかったことは考え難いことから、少なくとも2度目の朝貢では軍号を授与されていることは考えられ、また東晋・宋が、いつ朝貢するかも分からない高句麗のために東方将軍号の最上位を空席にして待っていたとも考え難く、高句麗に先行して朝貢した百済に「征東将軍」を授与するのが自然であるにもかかわらず、百済王に「鎮東将軍」が授与されていることは、336年ないし343年の朝貢に際して高句麗王に「征東将軍」を授与されている可能性が高い。したがって、軍号授与は、高句麗→百済→倭の順となり、高句麗、百済、倭に対する東方将軍号は、南朝への入貢順に東方将軍号の上位から授与されたものであり、高句麗王、百済王、倭王に上下優劣があるという主張には従えず、倭王は南北朝時代を通じて「安東大将軍」を自称するに留まり、「鎮東(大)将軍」「征東(大)将軍」を要求しなかったのは、百済の軍事的支配権要求は「安東(大)将軍」で十分かつ「安東(大)将軍」は「鎮東(大)将軍」に劣るとは認識しておらず、実際に「安東(大)将軍」で「都督百済諸軍事」を得られると理解していたからであり、「安東(大)将軍」のままで「都督百済諸軍事」を要求したことに問題はなかったことを指摘している。また、倭王による「都督百済諸軍事」要求は、百済領は一地域二軍事権の対象外であり、制度上許可できないため、南朝が「都督百済諸軍事」を倭王に承認しなかったのは、すでに百済王に「都督百済諸軍事」を授与していたからであり、倭王の軍号が百済王の軍号に劣るという理由に基づくものではないことも指摘している。
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