倭の五王の官職号とは? わかりやすく解説

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倭の五王の官職号

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/01 02:55 UTC 版)

倭の五王」の記事における「倭の五王の官職号」の解説

倭王たちは宋帝半島南部軍事的支配権承認してくれるよう繰り返し上申し、武は「使持節 都督 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」を授与された。新羅任那加羅秦韓・慕韓の統治についての公認得たものの、百済に関してはついに認められなかった。この理由としては、宋が北魏牽制するため戦略上の要衝にある百済重視したこと、倭と対立する高句麗『宋書』における呼称は高驪)の反発避けようしたもの考えられるまた、倭王将軍号高句麗王百済王比較して常に格下であったが、これも同様に高句麗百済地政学的な重要性考慮したものとする主張があり、特に韓国では、中国の官職制度は、四安将軍→四鎮将軍→四征将軍昇進するため、高句麗王(「征東(大)将軍」)、百済王(「鎮東(大)将軍」)、倭王(「安東(大)将軍」)軍号には上下優劣関係がある、すなわち、東夷諸王正式に正され地位は、高句麗最上位とし、続いて百済最後に倭という序列は、南北朝時代通じて変わることはなく、その叙任にあたって三国対す重要度反映しており、宋代通じて三国間に身分違いがあり、将軍号序列において百済王より劣る倭王百済軍事的支配権意味する都督百済諸軍事」号を要求することなど論外という評価がある。鐘大は、「同じ時期冊封百済は鎮東大将軍であり、倭は序列が低い安東将軍に過ぎないにも拘わらず百済包含する韓半島南部軍事的に支配したというのは論理的に成立しえない主張である」と述べている。これに対して一見すると序列あるようにみえるが、事実南朝東晋・宋)への入貢順に東方将軍号の上位から授けられたもので、南朝側による格付けでもなく、また国際的評価よるものでもなく、三国間に上下優劣の関係はなく、倭に対す評価高句麗百済よりも低く、それが「安東(大)将軍」に表れているとみなすことはできないという反論がある。 坂元義種は、南朝倭王百済対す軍事的支配権承認しなかったのは、北魏封じ込めるために国際政策上百済重視し、「南朝が、最強敵国北魏締めつける国際的封鎖連環のなかに百済がっちりはめこんで、その弱化認めいとする南朝国際政策」であり、南朝倭王席次や軍号が百済王より下位であるため百済対す軍事的支配権承認しなかったという主張は、南朝倭王の軍号を高めて百済の上位にすることはいくらでも可能であるため、「本末転倒し主張」と指摘している。 石井正敏は、倭王百済王よりも下位であるなら、上位である「鎮東(大)将軍」である百済軍事的支配権を、下位である「安東(大)将軍」である倭王執拗に要求しているのは何故かという素朴な疑問生じることを指摘している。南朝から冊封され、希望する官爵自称し、除正を求めるだけでなく、部下にも南朝将軍号を仮授した上で除正を求めている倭王が、南朝官爵制度理解していないことは考えられず、百済軍事的支配権主張した倭王は「安東(大)将軍」でも「都督百済諸軍事」号要求は可能であることを認識していたと考えざるを得ず、何故なら倭王が、自らの「安東(大)将軍」が百済王の「鎮東(大)将軍」よりも下位であり、「都督百済諸軍事」号要求不当な要求であることを認識していたならば、百済王同等の「鎮東(大)将軍」、さらに上位の「征東(大)将軍」を自称し、除正を要求する、あるいは承認されないことを承知の上で自称するはずであり、それは高句麗との対決明確にした武は、高句麗王同等待遇である「開府儀同三司」を自称し、除正を求めていることからも裏付けられる。 坂元義種は、百済王鎮東将軍授与され40年後に高句麗王百済王よりも上位である「征東将軍」が授与されていることから、任官先後が、軍号の上下を決定するものではないと主張している。 義熙九年(四一三)、東晋数十年ぶりに使者送ってきた高句麗王征東将軍授けたが、この将軍号百済王鎮東将軍よりも上位のものであった。なお、この間百済王咸安二年(三七二)に余句が、太元十一年(三八六)には余暉が、それぞれ鎮東将軍任命され、また咸安二年・太元年の朝貢も知られている。このことは、対中交渉時期交渉回数多寡、あるいは任官時期あとさきが、かならずしも任官内容決定するものではないことを示しているといえよう。つまり、任官内容決定するものは、中国王朝国際政策諸国対す国際的評価などであったと思う。 — 坂元義種倭の五王 これに対して石井正敏は、高句麗王南朝から将軍号授与され初見413年であるが、高句麗故国原王355年前燕に遣使して征東大将軍授与されていること、また、高句麗王336年343年東晋朝貢しており、『晋書』には冊封有無記録されていないが、同一王(故国原王)による2度朝貢に際して朝貢しておきながら、見返りである官爵求めなかったことは考え難いことから、少なくとも2度目朝貢では軍号を授与されていることは考えられ、また東晋・宋が、いつ朝貢するかも分からない高句麗のために東方将軍号最上位空席にして待っていたとも考え難く高句麗先行して朝貢した百済に「征東将軍」を授与するのが自然であるにもかかわらず百済王に「鎮東将軍」が授与されていることは、336年ないし343年朝貢に際して高句麗王に「征東将軍」を授与されている可能性が高い。したがって、軍号授与は、高句麗百済→倭の順となり、高句麗百済、倭に対す東方将軍号は、南朝への入貢順に東方将軍号の上位から授与されたものであり、高句麗王百済王倭王上下優劣があるという主張には従えず、倭王南北朝時代通じて安東大将軍」を自称する留まり、「鎮東(大)将軍」「征東(大)将軍」を要求しなかったのは、百済軍事的支配権要求は「安東(大)将軍」で十分かつ安東(大)将軍」は「鎮東(大)将軍」に劣るとは認識しておらず、実際に安東(大)将軍」で「都督百済諸軍事」を得られる理解していたからであり、「安東(大)将軍」のままで「都督百済諸軍事」を要求したことに問題はなかったことを指摘している。また、倭王による「都督百済諸軍事」要求は、百済領は一地域二軍対象外であり、制度許可できないため、南朝が「都督百済諸軍事」を倭王承認しなかったのは、すでに百済王に「都督百済諸軍事」を授与していたからであり、倭王の軍号が百済王の軍号に劣るという理由に基づくものではないことも指摘している。

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