アンティオコス3世の遠征とローマ
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「セレウコス朝」の記事における「アンティオコス3世の遠征とローマ」の解説
紀元前223年、アンティオコス3世が即位すると、セレウコス朝は再び拡大期に入った。アンティオコス3世は即位するとすぐ国内の反乱勢力の多くを鎮圧した。プトレマイオス朝と戦った第4次シリア戦争(ドイツ語版)では紀元前217年のラフィアの戦いでは一敗地にまみれたものの、紀元前212年に開始した東方遠征では著しい成功を収めた。まずパルティアへ向かったアンティオコス3世は、アンドラゴラスの領土を征服して同地に王朝を築いていたアルサケス朝のアルサケス2世を破った。続いてバクトリアへ向かい、アリエ川の戦いでバクトリア王エウテュデモス1世の軍勢を破り、さらにバクトラを2年間にわたって包囲して有利な講和を結び、セレウコス朝の東方における影響力は飛躍的に増大した。東方遠征から戻ったアンティオコス3世は再びプトレマイオス朝と戦って勝利した(第5次シリア戦争(ドイツ語版))。 これらの業績によって彼は大王と呼ばれる。しかし、間もなく共和政ローマと対立しローマ・シリア戦争が勃発するが、マグネシアの戦いで決戦に及んだが大敗に終わり、アパメイアの和約で領土割譲と膨大な賠償金を課せられるに到り、セレウコス朝の拡大は再び終了した。アンティオコス3世の息子セレウコス4世フィロパトル、アンティオコス4世エピファネスの治世を通じて、ローマのセレウコス朝に対する影響力は増大を続け、反比例してセレウコス朝の権威は失墜した。
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