アンティオコス3世の遠征とローマとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > アンティオコス3世の遠征とローマの意味・解説 

アンティオコス3世の遠征とローマ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 15:58 UTC 版)

セレウコス朝」の記事における「アンティオコス3世の遠征とローマ」の解説

紀元前223年アンティオコス3世即位すると、セレウコス朝は再び拡大期入ったアンティオコス3世即位するとすぐ国内の反乱勢力多く鎮圧したプトレマイオス朝戦った第4次シリア戦争ドイツ語版)では紀元前217年ラフィアの戦いでは一敗地にまみれたものの、紀元前212年開始した東方遠征では著し成功収めた。まずパルティア向かったアンティオコス3世は、アンドラゴラス領土征服して同地王朝築いていたアルサケス朝アルサケス2世破った続いてバクトリア向かいアリエ川戦いでバクトリアエウテュデモス1世軍勢破り、さらにバクトラ2年間にわたって包囲して有利な講和を結び、セレウコス朝東方における影響力飛躍的に増大した東方遠征から戻ったアンティオコス3世は再びプトレマイオス朝戦って勝利した第5次シリア戦争ドイツ語版))。 これらの業績によって彼は大王呼ばれる。しかし、間もなく共和政ローマ対立しローマ・シリア戦争勃発するが、マグネシアの戦い決戦及んだ大敗終わりアパメイアの和約領土割譲膨大な賠償金課せられる到りセレウコス朝拡大は再び終了したアンティオコス3世息子セレウコス4世フィロパトル、アンティオコス4世エピファネス治世通じてローマセレウコス朝対す影響力増大続け反比例してセレウコス朝権威失墜した

※この「アンティオコス3世の遠征とローマ」の解説は、「セレウコス朝」の解説の一部です。
「アンティオコス3世の遠征とローマ」を含む「セレウコス朝」の記事については、「セレウコス朝」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「アンティオコス3世の遠征とローマ」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「アンティオコス3世の遠征とローマ」の関連用語

アンティオコス3世の遠征とローマのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



アンティオコス3世の遠征とローマのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのセレウコス朝 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS