ラフィアの戦い
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ラフィアの戦い(英: Battle of Raphia、紀元前217年6月22日)は、第四次シリア戦争の戦闘であり、セレウコス朝の王アンティオコス3世とプトレマイオス朝のプトレマイオス4世との間で戦われた会戦である。この戦いは第4次シリア戦争の帰趨を制した。この戦争はアンティオコス3世が、プトレマイオス朝の支配下にあったシリア南部(コイレ・シリア)の支配権獲得を目指してプトレマイオス朝の領土に侵攻したことではじまった戦争である。ラフィアの戦いでアンティオコス3世は敗れ、セレウコス朝の南部シリア方面への拡大政策は頓挫し、プトレマイオス朝は自国領土を防衛することに成功した。
- ^ 正確にはクレタ弓兵隊1500人、ネオクレタ弓兵隊1000人。前者の指揮官はエウリュロコス、後者の指揮官はゼリュスであり別個の部隊であった。しかしネオクレタ人(ネオクレテス)とクレタ人の違いについては不明である。暫く後のマグネシアの戦いでも彼らは区別されており、一時的な区分ではなかったと考えられる。
- ^ キッシアはエラムの中心都市スサの別名。古くからのエラム人に加えてギリシア人も多数住み着いていた。
- ^ カドゥシアとはアルメニアの東部、カスピ海地方である。
- ^ カルマニアとは現在のイラン領ケルマーン州付近の事である。当時セレウコス朝の支配が強く及んではおらず、カルマニア人は傭兵であったと推定されている。
- ^ カルダケスはペルシアの兵科区分であり歩兵部隊である。元来はエリート部隊の称号であったが後に単なる美称になったとも言われている。
- ^ アグリアニア人はトラキア地方のマケドニア系住民であるが、セレウコス朝の軍勢に参加したのはラフィアの戦いの時のみである。
- ^ この戦象同士の戦いの勝敗がどのようにしてついたのかは異説も多く、また当時の戦象の運用方法についても完全に解明されていない。
- ^ 政治力の低いプトレマイオス4世の時代にエジプトの実権を握っていた人物。
- ^ プトレマイオス4世の王妃であり実妹にあたる。有能な女性で高い政治的指導力を発揮したが、後にソシビオスらと対立して暗殺された。
- ^ ただし従来クレルコイであったギリシア人・マケドニア人の中にはこうしたエジプト人の進出を嫌う風潮が強くあった。彼らは新たにカトイコイを名乗るようになり、一種の軍事貴族を形成していった。
- 1 ラフィアの戦いとは
- 2 ラフィアの戦いの概要
- 3 背景
- 4 結果
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