第四次シリア戦争(前219年 - 前217年)
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「シリア戦争 (プトレマイオス朝)」の記事における「第四次シリア戦争(前219年 - 前217年)」の解説
アンティオコス3世がセレウコス朝の王位を継いだ折、彼はセレウコス1世が過去に築き上げた領土(東はグレコ・バクトリア王国、北はヘレスポントス、そして南はシリア)を再び取り戻そうと画策した。当時、反乱を起こしたメディアとペルシアの全領土を掌握しようと企んだのである。アンティオコスはエジプトとシリアに目を向けた。 プトレマイオス4世治下のエジプトは、司法の不正やギリシャ人優位の統治構造に対する土着エジプト人の不信などにより弱まっていた。プトレマイオス4世はもはや官僚たちに抗えるほどの権力を持てなくなった。官僚たちは自らの絶対的な権力を私的に利用していた。アンティオコスはエジプトの混沌とした状況を利用しようとし、紀元前219年に第四次シリア戦争を起こし、ピエリア地方とフェニキア諸都市を奪還した。しかし、エジプト本土への侵攻は自制した。 アンティオコスは奪い返した領土を統合しながらも、フェニキアにとどまり、プトレマイオス朝からの外交的提案を待っていた。 その間、プトレマイオス朝の宰相であるソシビオスは軍隊の募集と訓練に着手していた。ソシビオスはギリシア人だけではなく、エジプト人からも兵士を募集し、結果として3万のエジプト人重装歩兵部隊が編成された。 この新部隊を率いてエジプト軍はアンティオクス軍を迎え撃ち、イプソスの戦い以来最も大規模な会戦であるラフィアの戦いで勝利を飾った。この戦いによりアンティオコスのエジプトへの進出は頓挫した。
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