第四次グラッドストン内閣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/23 01:05 UTC 版)
「ウィリアム・ヴァーノン・ハーコート」の記事における「第四次グラッドストン内閣」の解説
1892年7月に成立した第4次グラッドストン内閣でも財務大臣として入閣したが、この頃にはハーコートはグラッドストンのアイルランド自治法案への偏愛ぶりを煙たがるようになっており、グラッドストンに口答えするようになっていた。 しかし「小英国主義派」という面ではハーコートはグラッドストンと同じ立場であり、1892年から1893年にかけて「自由帝国主義派」の外相ローズベリー伯爵が推し進めていたウガンダ植民地化には、グラッドストンとともに慎重姿勢をとった(結局最後にはグラッドストンが折れて1894年にウガンダはイギリスに併合された)。 また列強の植民地争奪戦の激化で1893年後半からイギリス国内では海軍増強の必要性が叫ばれるようになり、グラッドストン内閣でも閣僚のほとんどが海軍増強に賛成するようになった。グラッドストンとハーコートと他二閣僚はそれに反対し続けたが、1894年に入るとハーコートは海軍予算増額を認めなければ内閣が瓦解すると考え、海軍増強派に転じた。これによって閣内で完全に孤立したグラッドストンは海軍増強の是非をめぐる解散総選挙を行おうとしたが、閣僚の全員一致で反対された。ハーコートも「利己的な狂人の行為」と評してグラッドストンを批判した。結局グラッドストンは辞職することになった。 グラッドストンの退任で自由党庶民院院内総務にはハーコートが就任することになった。
※この「第四次グラッドストン内閣」の解説は、「ウィリアム・ヴァーノン・ハーコート」の解説の一部です。
「第四次グラッドストン内閣」を含む「ウィリアム・ヴァーノン・ハーコート」の記事については、「ウィリアム・ヴァーノン・ハーコート」の概要を参照ください。
第四次グラッドストン内閣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 07:17 UTC 版)
「ウィリアム・グラッドストン」の記事における「第四次グラッドストン内閣」の解説
総選挙に敗れたソールズベリー侯爵は辞職し、8月18日に第四次グラッドストン内閣(英語版)が成立した。当時グラッドストンは82歳であり、歴代最年長での首相就任だった。
※この「第四次グラッドストン内閣」の解説は、「ウィリアム・グラッドストン」の解説の一部です。
「第四次グラッドストン内閣」を含む「ウィリアム・グラッドストン」の記事については、「ウィリアム・グラッドストン」の概要を参照ください。
- 第四次グラッドストン内閣のページへのリンク