第四次エジプト遠征とは? わかりやすく解説

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第四次エジプト遠征

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/23 01:17 UTC 版)

アモーリー1世 (エルサレム王)」の記事における「第四次エジプト遠征」の解説

しかし、10万ディナールという多額貢納とアモーリーの残した駐留部隊貢納取立てフランク官僚保護するため)のおかげでエジプトでは反フランク、親ヌールッディーン感情くすぶりはじめた。この不穏な空気感じ取ったエジプトフランク人たちはアモーリーに助け求めた。これを受け、1168年10月エジプト征服を胸にアモーリーはエジプトへの四度目の遠征敢行する。彼はエジプトヌールッディーン助けなしに自身の敵ではないと知っていたからだ。しかし、前回同盟立役者だったテンプル騎士団はせっかくの同盟ぶち壊すこの遠征反対し、その進言受け入れられぬと知ると遠征への不参加表明した。これとは対照的に聖ヨハネ騎士団はこの遠征賛同し大兵力を投入したエジプト侵入したエルサレム軍はビルバイスを落とし住民虐殺した。この虐殺はアモーリーにとって最悪結果生んだ。この事件カイロの親フランクエジプト人にさえアモーリーに対す徹底抗戦決意させ、シャーワルは町を明け渡すぐらいなら破壊すると言わんばかりにカイロ旧市街地に火を放たせた。シャーワルヌールッディーン介入なしでアモーリーに撤退説得しようとしたが、カリフのアル・アーディド自身ヌールッディーンに対して救援求め手紙送った。これを受け、ヌールッディーン三度シールクーフ派遣する。しかし、今回はアモーリーとシールクーフ対決起こらないカイロ火を放ったカイロ市民の決意驚きヌールッディーン背後突かれるのを恐れ1169年1月2日にアモーリーは撤退したシールクーフ到着したのはそれから6日後だった。この件で影響力失ったシャーワル殺され代わりにサラディンエジプト宰相就任した。この遠征の失敗でアモーリーはヌールッディーン介入とシールクーフ・サラディンの影響力増大許し(そしてこれは後にサラディンによるアイユーブ朝樹立に繋がる)、(これまでファーティマ朝ヌールッディーン政権宗派違いから対立していたが)エジプトとシリアから挟まれるになった。さらに、アモーリーはエジプトとの同盟朝貢という前回での成果全てをも失った

※この「第四次エジプト遠征」の解説は、「アモーリー1世 (エルサレム王)」の解説の一部です。
「第四次エジプト遠征」を含む「アモーリー1世 (エルサレム王)」の記事については、「アモーリー1世 (エルサレム王)」の概要を参照ください。

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