第二次攻勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 03:17 UTC 版)
1873年11月、ヤン・ファン・スヴィーテン(英語版)率いる1万3000人のオランダ軍が第二次攻勢を開始した。この戦争では、コレラにより両軍に数千人の戦病死者が出た。1874年1月までに、マフムードらはバンダアチェを放棄せざるを得なくなり、奥地へと撤退しつつ抵抗を続けた。アチェ王国の首都とダラム(スルターンの宮殿)を占領したオランダ軍は、これで戦争はオランダの勝利に終わったと信じ切っていた。オランダはアチェのスルターン制の廃止と、オランダ領東インドへの併合を宣言した。 1874年にマフムードはコレラで死去したが、アチェ人はその甥で幼少のトゥンク・ムハンマド・ダウドをムハンマド・ダウド・シャーとして擁立した。彼とその支持者は数十年にわたりゲリラ戦を展開し、アチェ側・オランダ側双方が多くの犠牲者を出した。1880年ごろ、まだバンダアチェ周辺しか支配が確立できていなかったオランダは再び方針転換して、すでに支配が確立している地域と海岸線の統治に注力するようになった。海上封鎖策も功を奏しはじめ、海岸地域のウレーバラン(領主)たちは次々とオランダの宗主権を認めさせられていった。しかし一方で、このウレーバランたちは封鎖が解けて収入が回復したのち、その資金でアチェの抵抗勢力を支援していた。 オランダ植民地政府は、アチェ併合のために数千人の戦死者を出し、莫大な戦費を費やした。1880年10月13日、植民地政府は戦争の終結を宣言し、文民政府を設置したが、それでも抵抗勢力との戦闘は事実上続いており、アチェ支配のための浪費が続く状況は変わらなかった。オランダはアチェ人の懐柔も試み、大モスク(現バイテゥラマン大モスク)を再建し、イスラム教徒との和解を演出した。
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