第二次改革法案
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/16 20:23 UTC 版)
改革に対する政界と世論からの圧力は強まる一方であり、改革を支持するホイッグ党は1831年イギリス総選挙で大勝した。ホイッグ党は有権者数が正常な選挙区のほぼ全てで勝利し、トーリー党は腐敗選挙区以外ではほとんど議席を取れなかった。そして、改革法案は再び提出され、7月の第二読会で大差で可決された。法案委員会の審議では法案に反対する議員が細部までくどく議論して遅滞させたが、結局9月に100票差以上で可決された。 法案は続いて貴族院に送付されたが、貴族院では法案に反対する議員が多数だった。1831年の総選挙でホイッグ党が大勝したため、法案に反対する議員でも公に世論に反対せず棄権に回るのではないかと予想され、実際に多くのトーリー党所属貴族が棄権したが、聖職貴族26名のうち22名が出席するという予想外の状況になり、うち21名が反対票を投じた結果、法案は41票差で否決された。 貴族院が改革法案を否決した夜、ダービーで暴動がおき、群衆が刑務所を攻撃して囚人を数人解放した。ノッティンガムでは暴動に参加した群衆がノッティンガム城(ニューカッスル公爵が所有)に放火、ウォラトン・ホール(英語版)(ミドルトン男爵(英語版)が所有)を攻撃した。ブリストルに至っては暴動に参加した者が同市を3日間支配し、刑務所に侵入したほかブリストル主教(英語版)の宮殿やブリストル市長の邸宅などを破壊した。ほかにもドーセット、レスターシャー、サマセットで暴力行為がみられた。 一方、各地の政治同盟はそれまで同じ目的を有する別々の団体だったのを変えて、国民政治同盟(英語版)を設立した。政府はこの同盟を脅威であるとみて、1799年煽動規制法(英語版)に基づき国民政治同盟を「憲法違反かつ違法」と宣言し、国民に同盟を排斥するよう命じた。国民政治同盟の指導者は宣言を無視したが、バーミンガム政治同盟の指導者は政府に協力して、全国レベルでの活動を自粛するよう求めた。
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