第二次攻防戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 22:34 UTC 版)
日本軍は約4万3千の晋州城攻略軍を編成し、包囲を宇喜多秀家、加藤清正の部隊に担当させ、小西行長、毛利秀元、小早川隆景の部隊に城普請と拠点での在番を割り当てた。 攻城戦前、晋州城東北方の星州に明副総兵・劉綎兵五千、周辺にも善山に游撃・呉惟忠兵五千、南原に参将・査大受、駱尚志、游撃・宋大斌兵六千、居昌に副総兵・祖承訓、游撃・李寧、葛逢夏と慶州に副総兵・王必迪の兵若干、約三万余の明軍を各地に駐屯した。6月14日、宜寧に集結していた朝鮮都元帥・金命元、平安巡辺使・李薲、全羅巡察使・権慄、全羅兵使・宣居怡、防禦使・李福男、助防将・李継鄭、鄭名世、慶尚左兵使・高彦伯、右兵使・崔慶会、忠清兵使・黄進、京畿助防将・洪季男、星州牧使・郭再祐、倡義使・金千鎰、義兵・高従厚などの李朝軍5万余は咸安に到着して日本軍の進軍を止めさせたが、日本軍先鋒隊の立花宗茂、高橋統増と小早川秀包と共に兵4千でこれを敗走させた。部分の朝鮮軍は15日に全州へ撤退し、金千鎰を主に一部の朝鮮軍は晋州城に入る。よって日本軍は昌原より咸安と宜寧を通過して晋州城へ進軍した。 対する守城側では意見がまとまらず、籠城を主張する倡義使・金千鎰(義兵)に対し、明軍は晋州城防衛に不同意であり、朝鮮軍でも方針は分裂し西人派は籠城を主張し東人派は消極的だった。最終的に晋州城内へ集結した兵力は李氏朝鮮軍約7000と避難民だけであった。 6月21日に日本軍は晋州城を包囲すると、攻城用の高櫓を作り、濠の水を南江に落とす土木工事を始める。22日から本格的な包囲と工事普請が始まる。加藤清正ら一番隊と宇喜多秀家ら三番隊が包囲、小西行長らの部隊は後方支援と輸送、毛利秀元、小早川隆景らは朝鮮半島南部で恒久的な城の普請を始めた。 6月27日には宇喜多秀家が降伏勧告を行ったが李氏朝鮮側は拒絶、29日に亀甲車を用いて城壁を突き崩すと、黒田長政配下の後藤基次や加藤清正配下の森本一久らが先を争って突入し晋州城を攻略した。 陥落した晋州城では、倡義使・金千鎰、その子・金象乾、慶尚右兵使・崔慶会、忠清兵使・黄進、晋州府使・徐礼元、義兵将・高従厚、金海府使・李宗仁、巨済県令・金俊民などの武将が戦死した。
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