ローマ帝国時代から諸侯領時代まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 10:14 UTC 版)
「アヴィニョン」の記事における「ローマ帝国時代から諸侯領時代まで」の解説
ローマ帝国時代にはガリア・ナルボネンシス属州の主要都市の一つであった。キリスト教が入ったのは早く、70年に司教座が置かれた。5世紀に蛮族の侵入によって荒廃した後、737年にカール・マルテル率いるフランク人(フランク王国)によって滅ぼされた。カール・マルテルが戦っていたアラブ人の側についたことによる。その後、ブルグント王国、ついでアルル王国領となる。12世紀末、都市は独立を宣言し、共和制をとる都市国家となるが、長くは続かず、アヴィニョンはプロヴァンス伯領、次いでトゥールーズ伯領となった。中世末のカタリ派運動の中ではカタリ派を支持した結果、1226年にアルビジョア十字軍を率いたフランス王ルイ8世によって占領され、武装解除された。カタリ派を支持した街への処罰として、市の城壁は破壊された。 1274年、フランス王フィリップ3世はアヴィニョンの周囲一帯(アヴィニョンは除く)のコンタ・ヴネサン(英語版)(ヴネサン伯領)を教皇領に割譲した。1309年にローマ教皇クレメンス5世がアヴィニョンを居所に定め、1377年まで教皇庁所在地とした(アヴィニョン捕囚)。1303年にアヴィニョン大学が開かれ、フランス革命まで続き、法学で知られた。1426年に大司教座がおかれた。 アヴィニョン捕囚時代の半ば、1348年に領主プロヴァンス伯(兼ナポリ女王)ジョアンナから教皇クレメンス6世にアヴィニョンが売却された。以後、フランス革命で没収されるまでアヴィニョンはフランス国内の教皇領の飛び地となった。何人かの対立教皇は、アヴィニョンに教皇座を置いている。
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