アヴィニョン捕囚時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 10:14 UTC 版)
「アヴィニョン」の記事における「アヴィニョン捕囚時代」の解説
詳細は「アヴィニョン捕囚」を参照 1305年、教皇に選出されたボルドー大司教がクレメンス5世としてリヨンで即位した。フランス人教皇誕生の背後にはフランス王フィリップ4世の強い影響力があった。アナーニ事件などで教皇を威嚇していたフィリップ4世の意志を受けたクレメンス5世は、ローマに戻らず枢機卿団と共にアヴィニョンに滞在し、ここに教皇庁の移転を宣言した。これがいわゆるアヴィニョン捕囚(教皇のバビロン捕囚)である。 こうして1309年にクレメンス5世がアヴィニョンに居を定めて以来、1377年にグレゴリウス11世がローマに戻るまで、7代69年間にわたってこの「捕囚」が続いた。この間、事実上の「キリスト教界の首都」となったアヴィニョンには、教皇庁宮殿、現在はフラ・アンジェリコやボッティチェリの「聖母子」を収蔵するプティ・パレ美術館として利用されている大司教館など、当時の建築が数多く残り、そのあたりの地区はアヴィニョン歴史地区として世界遺産に登録された。
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