アヴィニョン: 公教育と教育外教育 独立のきざしとは? わかりやすく解説

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アヴィニョン: 公教育と教育外教育 独立のきざし

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 03:05 UTC 版)

ジャン・アンリ・ファーブル」の記事における「アヴィニョン: 公教育と教育外教育 独立のきざし」の解説

いまや確実な知識携えたファーブルは、自分の進むべき分野決めた科学において昆虫行動学、つまり習性研究情熱傾けたが、また優れた教育者としての研鑚も同じ程に続けられていったアヴィニョンリセで、物理化学教師として18年間(1853-1871)教師勤めたファーブルは、こうして多く学識経験積み重ねていった。 ファーブルアヴィニョン任命されたことを喜んだ。それは郊外のロベルティの農家両親や弟が住んでいたからでもあった。両親はやっとそこで落ち着いた生活を20年送った。しかし何にもまして大きな喜びは、アヴィニョンという地中海的な動植物豊かな生息地立ったことである。振り返って見ると、ファーブル経てきた道のりは常に雄大なヴァントゥ山見え光り溢れた所へ回帰のためであったことが分かるアヴィニョン滞在2年目に、ファーブルはモキャン・タンドンの忠告応えてきっぱりと数学教授資格受験放棄して自然科学の道を選ぶと自然理学士号試験臨んだ1854年8月1日、彼は弟に手紙書き送っている。《トゥールーズから今戻ってきたところだ。今度試験今までのうちで最高の出来であった学士として承認され審査委員から身に余る賛辞を受け、試験費用免除された。試験内容予想外に高度であった...》。 この成功将来目的推進するのに大い役立ち次の重要な段階である博士号への道を開いた教師通常大学教授資格博士号受験選択することができる。もしファーブル大学教授資格試験を選ぶならば膨大な知識もたらすが、しかし個人的な研究のほうは断念せざるを得なくなる。ファーブルにとって知識を深めるとは、同時に自分テーマ研究することである。博士号選んだ彼の論文主題は《多足類における生殖器官発達解剖学的研究であったパリ行なわれ博士論文口頭審査員は、国立自然史博物館教授ヘンリ・ミルヌ・エドワーズ、イジドール・ジョフロワ・サンティレール植物学者のパイエーといった錚錚たるメンバーであった慣例により、論文には第二テーマが必要であり、ファーブル選んだ植物学研究は「Himantoglossum hircinum における塊茎研究であった植物学において動物学同様、ファーブル大学独特の表現法従った。それは厳し規則則った正確な書き方要請され文学風の文体認められなかった。こういった紋切り型書体体験したファーブル生徒にも将来のためにそれを伝授した。これらの論文認められファーブル博物学博士号取得した。 これは1855年のことであり、この年ファーブルにとって研究の面では幸運なであった科学アカデミー主催のモンティオン生理学賞のコンクールで彼は《良》の成績得た。それは《ジガバチ科本能変態研究》で、その年の「自然科学動物学年報」に掲載された。このテーマは後の「昆虫記」へと大きく展開していく。 1856年9月1日書かれ未発表観察日誌は、昆虫記文学調とは異なり第一試験管、アナバチ小室から取り上げたコオロギ第二試験管、アナバチから取り上げたコオロギ第三試験管、自分目の前でアナバチ刺したコオロギ。》といった文体で、麻痺による肢、触角大顎拍動について長くて詳しい記述続いている。また時にはもっとも観察困難な場所での微妙な実験をすることもある。例えば、7月23日書き込みには、数種の膜肢目の捕食昆虫観察するために、すぐそばの台地守備隊が的に向けて射撃訓練をしているイサールの行った。《たくさんのツチバチの雄は緩慢に地面近く飛んでいる。少数の雌はかなり強い風あおられて、ときどき地面叩きつけられては頭をしばらく下げたまま動けいでいる。それを見た雄は急いでの上飛び降りるが、むげにも追い払われる。この出来事射撃採点者の防御用の小山の少し前で始まった。冬にこの辺りを掘ってみれば必ずツチバチの繭が見つかるはずである》(観察日誌抜粋から)。 コルシカから戻ったファーブルは、情熱対象である観察再開し気候良くなると、アヴィニョン郊外田園やガリッグ、河岸砂地などを徘徊し続けた。そしてしばしば妻のマリ-セザリーヌを伴って戻るカルパントラ近くでは、彼は何年前に膜肢目の特にツチスガリ習性発見した時の感動よみがえってきた。正にこの時期ファーブル昆虫学研究大きな影響と向上をもたらすことになる出会いがあった。以前からファーブルは、ランド地方医者で、広い視野昆虫学者レオン・デュフールに、いくつかの出版物通して関心寄せていた。 正確に1855年、デュフールは国立動物学会年報に、「ファーブル氏のツチスガリについて一言」と題した記事書いた。こうして二人昆虫学者1856年からレオン・デュフールが亡くなる1865年まで、文通続けられた。デュフールは、膜肢目の昆虫獲物であるタマムシを、不動でしかも生きたまま保持する秘密は《保存液》によるものだと推測していた。これに対してファーブル極めて緻密な観察に基づき神経中枢破壊され麻痺している犠牲者持ってきて立証してみせた。この実験基づいてファーブル発表した論文フランス学士院でも高く評価され、デュフールもファーブル論文感心してファーブル激励する手紙を自ら書き送ったのである以来二人自然科学者お互いに深く尊敬し合う間柄となったこうしたファーブル動物行動学上の発見は、アヴィニョンオランジュ、そしてセリニャンアルマス数十年間続けられた。私達未発表多く記述読んで確認しているが、ファーブル悪意持っている人々主張しているのとは逆に、彼は研究の対象である種名については非常に正確さに気を使っていた。大都市から程遠いアヴィニョンであるが、アルマスはもっと孤立しており、ファーブル定期的に科学者社会接触保っていた。これはファーブル熱心に書き綴ったきわめて豊富な交信立証している。 日誌を手にした自然科学者が、いろいろの探査歩き回った1856年から1857年にかけてが、彼の研究外観形作った時期であろう。この日誌を読むと作家駆り立てた発見への熱情ひしひしと伝わってくる。日誌には、ファーブル1856年8月9月にレオン・デュフールに送ったいろいろな昆虫見本リストと、スワマーダム氏とカトルファジュ氏の記事写し送ったことが書かれている。しかし植物学忘れられていたわけではない例えば、1856年7月22日には、オプンティア属サボテン科)の雄しべ動きオリジナル観察書いてある。また、オフリス属(ラン)についてはいくつかの採集リスト記録されている。ウリ科植物の巻きひげとその動き花式図描いている。同じく1857年日付のある覚え書きには、数種の膜肢目のハナダカバチツチバチドロバチルリジガバチ寄生するヒメバチアナバチどのように被嚢を脱ぐか、甲虫目のハキリバチヤドリがどのように他の巣房横取りするか、ハキリバチヤドリの生体の構造など多く記録見られる両親住んでいるロベルティの農家に行く途中、彼は小さな左官ルリジガバチの古い巣を記述し図にも描いた。数頁あとには巣の材料、ある住んでいた壁の特徴化学反応などの記述が後の昆虫記神髄をなす。 当時ファーブル注意を引いた事柄で彼が興味を示さなかったものはなかった。きのこに於ても、彼は単に食べるだけではなく既に菌学であったが、特にヴォークリューズ経済にとって重要で高価なトリュフ栽培関心があり、1857年4月6日にはこのテーマヴォークリューズ県農業園芸協会講演をしている。この研究発表は「トリュフ栽培法解説」として出版された。 同じ時期ファーブル自然科学だけではなく物理学化学宇宙形状学、文学など多く分野手を染めていた。中でも数学自分研究大い役立ったファーブル日誌には、生徒父親のサン・ロランが息子宛に書いた手紙要約記されてある《君はファーブル先生の「平行線再生する曲線」という研究触れているが、君の優れた先生私からの賛辞伝えと共に彼の研究に役立つかもしれない次の記事渡して欲しい》。それに引き続いて、全く同じものを再生する特性を持つ超越曲線の証明書かれてあった。 ファーブル達がソルグ川沿いのタンチュリエー通り住んでいたとき、二人有名な植物学者との出会いがあった。一人アヴィニョン出身で、パリの「ヴィルモラン種苗会社」の植物栽培部長テオドール・ドゥラクールであったほどなく彼とは真の友情を結ぶことになる。二人植物語り輸入によって日々大幅に増えていく庭園栽培の花の種類について話し合った同じくファーブル達が喜んで迎えたのは、ベルナール・ヴェルロであった。彼は卓越した植物誌学者で、国立自然史博物館植物栽培部門最高責任者であったファーブル忘れ難いヴァントウー登山に、この二人パリジャン伴い途中一行のせいで断崖から落ちるところであった当時この山へはラバ使って一日がかりの登山であり、下山もほとんど同じであった。この遠足昆虫記の中で面白く語られている。 1865年6月には優れた化学者ジャン・バチスト・デュマ助言で、昆虫学問題関し意見求めるべくパスツールファーブル訪ねてきた。フランスでは養蚕産業が丁度繁栄していた時期であり、ヴォークリューズでは深刻な病気発生し1849年から被害広がっていた。病気には黒い小さな斑点があることから、「ペブリン病」(胡椒病)と呼んだが、その本当の原因微小藻類よるものであったパスツール生体昆虫生殖に関しては全く知らなかったが、カイコガについての知識ももちろん皆無であった。そこでファーブル彼にカイコガのことを教示した。パスツール簡単な解決方法、つまり健康なカイコガ病気のものから選別することを発見したそれだけ伝染病蔓延食い止めることができたのであるファーブルの生活はまだ苦しかった時には大学教える道を考えたが、当時大学教育には個人財産後ろ楯てが必要であった。それがなければ礼服隠れた貧乏》で、大学正式に昇進する見込みはないと誰か言われた。ファーブルは《知識階級豪華絢爛には貧乏なわれわれは気をつけよう!》と、ある時人話している。 ファーブル創意富んだ才能専門分野化学の研究使って染色産業収入得よう考えた染料アカネヴォークリューズでは格別重要な収入源であったアカネの赤い色は、軍の歩兵制服生地染めるのに使われた。アヴィニョンの一番風情のある遊歩道には、この地方アカネ導入したアルメニア人のアルテンの像が通り見下ろしている。アヴィニョン郊外栽培された「パリュス」と呼ばれたアカネの赤い根は、フランスでは最高級であった残念ながら自然染料品質は、不正を働く人々によって段々と落ちていった。ファーブルアカネ品質検査する方法抽出法開発した四つ特許取得した彼は、これで少しは経済的に楽になる考えたが、やはり福の神とは縁がなかった。1868年にはグレーブリーベルマン二人が、アントラセンから合成アリザリン製造成功した。それによって一挙に農家重要な収入源栽培に関するファーブルアカネ研究水泡に帰した科学者として歩みの中で、彼の人教えるという才能多く出来事によって開花していった。彼の優れた教育者としての才能は、特に18年間というアヴィニョン時代多く出来事通して発揮された。ファーブルは、教師勤務評定来校した視学官のヴィクトル・デュルイを教室迎えたファーブルはたちまち彼の雄弁さと該博な知識に魅せられたが、デュルイもファーブル好意友情さえ感じていたことを後になって知った1867年ある日、サン・マルシアル教会の廃院にあった自然史博物館自分研究室で、アカネ研究をしていたファーブル前に突然、視学官だったデュルイが表われた。彼は1863年から文部大臣になっていた。高等師範学校出の貧し工員息子であったデュルイは、意欲的に文部行政指導していった。彼はファーブル多方面にわたる研究のことを知っていた。この訪問によってファーブルパリ召還され、そこでデュルイによってレジオンドヌ-ル勲章シュヴァリエ章を授与された。チュイルリー宮殿伴われ皇帝接見したファーブルは、ナポレオン三世皇子家庭教師推された。しかし、彼はそれを辞してアヴィニョン急ぎ帰った。 デュルイの影響によって大人のための教育方針確立され農村における学校充足女子教育の向上、教育無償化のための法律1867年8月10日発布された。デュルイが示したこれらの政策理念ファーブル思想と全く一致していた。1869年頃デュルイはファーブルに、誰でも受講できる夜間学級》の開設依頼した。この授業はすぐに実施され大変な成功博した生徒にはあらゆる分野人々がいたが、多く農民混じりオック語詩人ルマニーユ、フレデリック・ミストラル哲学者であり数学者英国人ジョン・スチュワート・ミルなどがいた。教科の中で特に植物学人気高かった。その授業がある夜は、サン・マルシアル教会ヴォークリューズ々から若い女性達が持って来た花で埋まったと言われる。この夜間授業について後にファーブル次のように書いている。《私は信念持っていたので、全て出しきることを厭わなかったが、これほど熱心で夢中な聴講生をみたことはない。授業ある日の特に植物学祭りのようだった。近来温室から持ち寄られ多く花の山隠れてしまった》(昆虫記2巻、「うちのの話」)。 しかし第二皇帝統治下で、デュルイの発案によるフランスの教育民主化は、猛烈な反対に遭い1869年には彼を辞職にまで追い込だ。まもなく皇帝失墜し社会混乱陥った文部大臣指揮の下でファーブルが行なった新し教育法に対して陰謀企てられた。ファーブルパリ高等師範学校から、秩序破壊する教育法だとして糾弾され生徒達はそれに憤慨した最近まで女子教育修道女任されていたが、突然ファーブル授業は花も受精することを教えたファーブル達が住んでいた家の家主は、アヴィニョンの最も教会寄り人々であったある日執行吏が家に来て、この月のうちに家を出ていくように勧告した。 これは家族にとって大変困難な状況であるが、反対にファーブルにとっては自由を得たことになったアヴィニョン帝国リセ18年教職にあったファーブルは、その間一度昇進昇給もなかった。このことについて彼は書いている《大学学士免状を何積み重ね四分の一世紀の間の貢献対し賞賛受けたが、私と私家族1600フランという金持ち馬丁よりも少ない額を受けていた。これは教育に関して当時恥ずかしいほどけちであったからである。それにお役所無用な書類こだわったためでもある。私は正規教育受けていない独学の徒である。この教師生活のつらい試練本の中に忘れようとした...》(1巻タマムシ殺しツチスガリ」)。 ファーブル教職以外に1866年からアヴィニョン市立自然史博物館館長であった1851年からこの博物館は、ファーブル友人であった故エスプリ・ルキアンの名前を冠してルキアン博物館となった1870年ファーブルが、セギャン(兄)出版社から出したアヴィニョン周辺観察した甲虫目昆虫」という小さな本はルキアンに献呈した。この本は厳密な体系学調査研究であるが実用的でもある珍しい本である。この素晴らし自然史博物館は、動物学豊富なコレクション植物界動物界鉱物界の多くのものが収集されていることで知られている。現在でもここの植物標本フランスに於ける一番豊かで興味のあるものだといえようファーブルがいた当時、カルヴェ美術館はまだ隣にはなく、本館に続くかなり広い植物学公園館長管理の下にあったファーブルはこの博物館1873年まで勤めたアヴィニョン滞在悲劇的な終り方をしたとはいうものの、この土地ファーブル多く出来事通して自然科学への道を決心した彼の主な昆虫学発見の中で特に膜肢目の捕食発見アヴィニョン始まりであった。モンティオン賞に加えて科学アカデミー当時学者羨望の的であるトール賞をファーブル授与した。またファーブルアヴィニョンで、自分教科書作るといった新し教育法編み出し、それは教職を退くまで続けられた。

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