アヴィニョン: 公教育と教育外教育 独立のきざし
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「ジャン・アンリ・ファーブル」の記事における「アヴィニョン: 公教育と教育外教育 独立のきざし」の解説
いまや確実な知識を携えたファーブルは、自分の進むべき分野を決めた。科学においては昆虫の行動学、つまり虫の習性の研究に情熱を傾けたが、また優れた教育者としての研鑚も同じ程に続けられていった。アヴィニョンのリセで、物理化学の教師として18年間(1853-1871)教師を勤めたファーブルは、こうして多くの学識経験を積み重ねていった。 ファーブルはアヴィニョンに任命されたことを喜んだ。それは郊外のロベルティの農家に両親や弟が住んでいたからでもあった。両親はやっとそこで落ち着いた生活を20年間送った。しかし何にもまして大きな喜びは、アヴィニョンという地中海的な動植物の豊かな生息地に立ったことである。振り返って見ると、ファーブルの経てきた道のりは常に雄大なヴァントゥ山が見える光り溢れた場所への回帰のためであったことが分かる。 アヴィニョン滞在の2年目に、ファーブルはモキャン・タンドンの忠告に応えて、きっぱりと数学教授資格の受験を放棄して、自然科学の道を選ぶと自然理学士号試験に臨んだ。1854年8月1日、彼は弟に手紙を書き送っている。《トゥールーズから今戻ってきたところだ。今度の試験は今までのうちで最高の出来であった。学士として承認され、審査委員から身に余る賛辞を受け、試験費用は免除された。試験内容は予想外に高度であった...》。 この成功は将来の目的を推進するのに大いに役立ち、次の重要な段階である博士号への道を開いた。教師は通常大学教授資格か博士号の受験を選択することができる。もしファーブルが大学教授資格試験を選ぶならば膨大な知識をもたらすが、しかし個人的な研究のほうは断念せざるを得なくなる。ファーブルにとって知識を深めるとは、同時に自分のテーマで研究することである。博士号を選んだ彼の論文の主題は《多足類における生殖器官と発達の解剖学的研究》であった。パリで行なわれた博士論文の口頭審査員は、国立自然史博物館の教授ヘンリ・ミルヌ・エドワーズ、イジドール・ジョフロワ・サンティレールと植物学者のパイエーといった錚錚たるメンバーであった。慣例により、論文には第二のテーマが必要であり、ファーブルが選んだ植物学の研究は「Himantoglossum hircinum における塊茎の研究」であった。植物学においても動物学同様、ファーブルは大学独特の表現法に従った。それは厳しい規則に則った正確な書き方が要請され、文学風の文体は認められなかった。こういった紋切り型の書体を体験したファーブルは生徒にも将来のためにそれを伝授した。これらの論文が認められ、ファーブルは博物学の博士号を取得した。 これは1855年のことであり、この年はファーブルにとって研究の面では幸運な年であった。科学アカデミー主催のモンティオン生理学賞のコンクールで彼は《良》の成績を得た。それは《ジガバチ科の本能と変態の研究》で、その年の「自然科学と動物学年報」に掲載された。このテーマは後の「昆虫記」へと大きく展開していく。 1856年9月1日に書かれた未発表の観察日誌は、昆虫記の文学調とは異なり《第一試験管、アナバチの小室から取り上げたコオロギ。第二試験管、アナバチから取り上げたコオロギ。第三試験管、自分の目の前でアナバチが刺したコオロギ。》といった文体で、麻痺による肢、触角、大顎の拍動について長くて詳しい記述が続いている。また時にはもっとも観察に困難な場所での微妙な実験をすることもある。例えば、7月23日の書き込みには、数種の膜肢目の捕食昆虫を観察するために、すぐそばの台地で守備隊が的に向けて射撃の訓練をしているイサールの森に行った。《たくさんのツチバチの雄は緩慢に地面近くを飛んでいる。少数の雌はかなり強い風にあおられて、ときどき地面に叩きつけられては頭をしばらく下げたまま動けないでいる。それを見た雄は急いで雌の上に飛び降りるが、むげにも追い払われる。この出来事は射撃の採点者の防御用の小山の少し前で始まった。冬にこの辺りを掘ってみれば必ずツチバチの繭が見つかるはずである》(観察日誌の抜粋から)。 コルシカから戻ったファーブルは、情熱の対象である虫の観察を再開し、気候が良くなると、アヴィニョンの郊外の田園やガリッグ、河岸の砂地などを徘徊し続けた。そしてしばしば妻のマリ-セザリーヌを伴って戻るカルパントラの近くでは、彼は何年か前に膜肢目の特にツチスガリの習性を発見した時の感動がよみがえってきた。正にこの時期にファーブルの昆虫学の研究に大きな影響と向上をもたらすことになる出会いがあった。以前からファーブルは、ランド地方の医者で、広い視野の昆虫学者レオン・デュフールに、いくつかの出版物を通して関心を寄せていた。 正確には1855年、デュフールは国立動物学会年報に、「ファーブル氏のツチスガリについて一言」と題した記事を書いた。こうして二人の昆虫学者は1856年からレオン・デュフールが亡くなる1865年まで、文通が続けられた。デュフールは、膜肢目の昆虫が獲物であるタマムシを、不動でしかも生きたまま保持する秘密は《保存液》によるものだと推測していた。これに対してファーブルは極めて緻密な観察に基づき、神経中枢が破壊され麻痺している犠牲者を持ってきて立証してみせた。この実験に基づいてファーブルが発表した論文はフランス学士院でも高く評価され、デュフールもファーブルの論文に感心して、ファーブルを激励する手紙を自ら書き送ったのである。以来、二人の自然科学者はお互いに深く尊敬し合う間柄となった。こうしたファーブルの動物行動学上の発見は、アヴィニョン、オランジュ、そしてセリニャンのアルマスで数十年間も続けられた。私達は未発表の多くの記述を読んで確認しているが、ファーブルに悪意を持っている人々が主張しているのとは逆に、彼は研究の対象である虫の種名については非常に正確さに気を使っていた。大都市から程遠いアヴィニョンであるが、アルマスはもっと孤立しており、ファーブルは定期的に科学者の社会と接触を保っていた。これはファーブルが熱心に書き綴ったきわめて豊富な交信が立証している。 日誌を手にした自然科学者が、いろいろの探査に歩き回った1856年から1857年にかけてが、彼の研究の外観を形作った時期であろう。この日誌を読むと作家を駆り立てた発見への熱情がひしひしと伝わってくる。日誌には、ファーブルが1856年8月と9月にレオン・デュフールに送ったいろいろな昆虫見本のリストと、スワマーダム氏とカトルファジュ氏の記事の写しを送ったことが書かれている。しかし植物学が忘れられていたわけではない。例えば、1856年7月22日には、オプンティア属(サボテン科)の雄しべの動きのオリジナルな観察が書いてある。また、オフリス属(ラン)についてはいくつかの採集リストが記録されている。ウリ科植物の巻きひげとその動きや花式図を描いている。同じく1857年の日付のある覚え書きには、数種の膜肢目のハナダカバチ,ツチバチ、ドロバチ、ルリジガバチに寄生するヒメバチ、アナバチの蛹がどのように被嚢を脱ぐか、甲虫目のハキリバチヤドリがどのように他の巣房を横取りするか、ハキリバチヤドリの蛹の生体の構造などの多くの記録が見られる。両親が住んでいるロベルティの農家に行く途中、彼は小さな左官のルリジガバチの古い巣を記述し図にも描いた。数頁あとには巣の材料、ある虫が住んでいた壁の特徴、化学反応などの記述が後の昆虫記の神髄をなす。 当時ファーブルの注意を引いた事柄で彼が興味を示さなかったものはなかった。きのこに於ても、彼は単に食べるだけではなく既に菌学者であったが、特にヴォークリューズの経済にとって重要で高価なトリュフの栽培に関心があり、1857年4月6日にはこのテーマでヴォークリューズ県立農業園芸協会で講演をしている。この研究発表は「トリュフ栽培法の解説」として出版された。 同じ時期、ファーブルは自然科学だけではなく物理学、化学、宇宙形状学、文学など多くの分野に手を染めていた。中でも数学は自分の研究に大いに役立った。ファーブルの日誌には、生徒の父親のサン・ロランが息子宛に書いた手紙の要約が記されてある《君はファーブル先生の「平行線を再生する曲線」という研究に触れているが、君の優れた先生に私からの賛辞を伝えると共に、彼の研究に役立つかもしれない次の記事を渡して欲しい》。それに引き続いて、全く同じものを再生する特性を持つ超越曲線の証明が書かれてあった。 ファーブル達がソルグ川沿いのタンチュリエー通りに住んでいたとき、二人の有名な植物学者との出会いがあった。一人はアヴィニョンの出身で、パリの「ヴィルモラン種苗会社」の植物栽培部長テオドール・ドゥラクールであった。ほどなく彼とは真の友情を結ぶことになる。二人は植物を語り、輸入によって日々大幅に増えていく庭園栽培の花の種類について話し合った。同じくファーブル達が喜んで迎えたのは、ベルナール・ヴェルロであった。彼は卓越した植物誌学者で、国立自然史博物館の植物栽培部門の最高責任者であった。ファーブルは忘れ難いヴァントウー登山に、この二人のパリジャンを伴い、途中一行は霧のせいで断崖から落ちるところであった。当時この山へはラバを使って一日がかりの登山であり、下山もほとんど同じであった。この遠足は昆虫記の中で面白く語られている。 1865年6月には優れた化学者ジャン・バチスト・デュマの助言で、昆虫学の問題に関し意見を求めるべくパスツールがファーブルを訪ねてきた。フランスでは養蚕産業が丁度繁栄していた時期であり、ヴォークリューズでは蚕に深刻な病気が発生し、1849年から被害は広がっていた。病気の蚕には黒い小さな斑点があることから、「ペブリン病」(胡椒病)と呼んだが、その本当の原因は微小藻類によるものであった。パスツールは蝶の生体や昆虫の生殖に関しては全く知らなかったが、カイコガについての知識ももちろん皆無であった。そこでファーブルは彼にカイコガのことを教示した。パスツールは簡単な解決方法、つまり健康なカイコガを病気のものから選別することを発見した。それだけで伝染病の蔓延を食い止めることができたのである。 ファーブルの生活はまだ苦しかった。時には大学で教える道を考えたが、当時の大学教育には個人財産と後ろ楯てが必要であった。それがなければ《礼服に隠れた貧乏》で、大学で正式に昇進する見込みはないと誰かに言われた。ファーブルは《知識階級の豪華絢爛には貧乏なわれわれは気をつけよう!》と、ある時人に話している。 ファーブルは創意に富んだ才能と専門分野の化学の研究を使って、染色産業で収入を得ようと考えた。染料のアカネはヴォークリューズでは格別重要な収入源であった。アカネの赤い色は、軍の歩兵の制服の生地を染めるのに使われた。アヴィニョンの一番風情のある遊歩道には、この地方にアカネを導入したアルメニア人のアルテンの像が通りを見下ろしている。アヴィニョンの郊外で栽培された「パリュス」と呼ばれたアカネの赤い根は、フランスでは最高級品であった。残念ながら自然染料の品質は、不正を働く人々によって段々と落ちていった。ファーブルはアカネの品質を検査する方法と抽出法を開発した。四つの特許を取得した彼は、これで少しは経済的に楽になると考えたが、やはり福の神とは縁がなかった。1868年にはグレーブとリーベルマンの二人が、アントラセンから合成アリザリンの製造に成功した。それによって一挙に、農家の重要な収入源や栽培に関するファーブルのアカネの研究は水泡に帰した。 科学者としての歩みの中で、彼の人に教えるという才能が多くの出来事によって開花していった。彼の優れた教育者としての才能は、特に18年間というアヴィニョン時代の多くの出来事を通して発揮された。ファーブルは、教師の勤務評定に来校した視学官のヴィクトル・デュルイを教室に迎えた。ファーブルはたちまち彼の雄弁さと該博な知識に魅せられたが、デュルイもファーブルに好意や友情さえ感じていたことを後になって知った。1867年のある日、サン・マルシアル教会の廃院にあった自然史博物館の自分の研究室で、アカネの研究をしていたファーブルの前に突然、視学官だったデュルイが表われた。彼は1863年から文部大臣になっていた。高等師範学校出の貧しい工員の息子であったデュルイは、意欲的に文部行政を指導していった。彼はファーブルの多方面にわたる研究のことを知っていた。この訪問によってファーブルはパリに召還され、そこでデュルイによってレジオンドヌ-ル勲章のシュヴァリエ章を授与された。チュイルリー宮殿に伴われ、皇帝に接見したファーブルは、ナポレオン三世の皇子の家庭教師に推された。しかし、彼はそれを辞してアヴィニョンに急ぎ帰った。 デュルイの影響によって大人のための教育方針が確立され、農村における学校の充足と女子教育の向上、教育の無償化のための法律が1867年8月10日に発布された。デュルイが示したこれらの政策理念はファーブルの思想と全く一致していた。1869年頃デュルイはファーブルに、誰でも受講できる《夜間学級》の開設を依頼した。この授業はすぐに実施され大変な成功を博した。生徒にはあらゆる分野の人々がいたが、多くの農民に混じりオック語の詩人ルマニーユ、フレデリック・ミストラル、哲学者であり数学者の英国人ジョン・スチュワート・ミルなどがいた。教科の中で特に植物学は人気が高かった。その授業がある夜は、サン・マルシアル教会の机はヴォークリューズの村々から若い女性達が持って来た花で埋まったと言われる。この夜間授業について後にファーブルは次のように書いている。《私は信念を持っていたので、全てを出しきることを厭わなかったが、これほど熱心で夢中な聴講生をみたことはない。授業のある日の特に植物学は祭りのようだった。近来の温室から持ち寄られた多くの花の山で机は隠れてしまった》(昆虫記2巻、「うちの猫の話」)。 しかし第二皇帝の統治下で、デュルイの発案によるフランスの教育の民主化は、猛烈な反対に遭い、1869年には彼を辞職にまで追い込だ。まもなく皇帝は失墜し社会は混乱に陥った。文部大臣の指揮の下でファーブルが行なった新しい教育法に対して陰謀が企てられた。ファーブルはパリの高等師範学校から、秩序を破壊する教育法だとして糾弾され、生徒達はそれに憤慨した。最近まで女子教育は修道女に任されていたが、突然ファーブルの授業は花も受精することを教えた!ファーブル達が住んでいた家の家主は、アヴィニョンの最も教会寄りの人々であった。ある日執行吏が家に来て、この月のうちに家を出ていくように勧告した。 これは家族にとって大変困難な状況であるが、反対にファーブルにとっては自由を得たことになった。アヴィニョンの帝国リセで18年間教職にあったファーブルは、その間一度の昇進も昇給もなかった。このことについて彼は書いている《大学の学士免状を何枚も積み重ね、四分の一世紀の間の貢献に対し賞賛も受けたが、私と私の家族は1600フランという金持ちの馬丁よりも少ない額を受けていた。これは教育に関しては当時恥ずかしいほどけちであったからである。それにお役所が無用な書類にこだわったためでもある。私は正規の教育を受けていない独学の徒である。この教師生活のつらい試練を本の中に忘れようとした...》(1巻「タマムシ殺しのツチスガリ」)。 ファーブルは教職以外に1866年からアヴィニョン市立自然史博物館の館長であった。1851年からこの博物館は、ファーブルの友人であった故エスプリ・ルキアンの名前を冠してルキアン博物館となった。1870年にファーブルが、セギャン(兄)出版社から出した「アヴィニョン周辺で観察した甲虫目の昆虫」という小さな本はルキアンに献呈した。この本は厳密な体系学の調査研究であるが実用的でもある珍しい本である。この素晴らしい自然史博物館は、動物学の豊富なコレクションや植物界、動物界、鉱物界の多くのものが収集されていることで知られている。現在でもここの植物標本はフランスに於ける一番豊かで興味のあるものだといえよう。ファーブルがいた当時、カルヴェ美術館はまだ隣にはなく、本館に続くかなり広い植物学公園が館長の管理の下にあった。ファーブルはこの博物館に1873年まで勤めた。 アヴィニョンの滞在が悲劇的な終り方をしたとはいうものの、この土地でファーブルは多くの出来事を通して自然科学への道を決心した。彼の主な昆虫学の発見の中で特に膜肢目の捕食虫の発見はアヴィニョンが始まりであった。モンティオン賞に加えて科学アカデミーは当時の学者の羨望の的であるトール賞をファーブルに授与した。またファーブルはアヴィニョンで、自分で教科書を作るといった新しい教育法を編み出し、それは教職を退くまで続けられた。
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