アヴィニョン捕囚から大分裂へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/15 06:58 UTC 版)
「アヴィニョン捕囚」の記事における「アヴィニョン捕囚から大分裂へ」の解説
詳細は「教会大分裂」を参照 およそ70年後の1377年、教皇グレゴリウス11世はシエナのカタリナの助言によりローマに戻り、アヴィニョン捕囚の期間は終わるが[要出典]、グレゴリウス11世は翌年に逝去した。ローマで新たに教皇ウルバヌス6世が選出されるが、間もなくフランス人枢機卿が選挙は無効だと宣言して、別に教皇クレメンス7世(対立教皇)を選出した。こうして、ローマとアヴィニョン共に教皇が並び立つシスマ(教会大分裂)が起こる。 1409年のピサ教会会議でシスマ解消が図られたが失敗し、3人の教皇が鼎立して、教皇の権威は大きく揺らぎ、この分裂は1417年にコンスタンツ公会議でマルティヌス5世が選出されるまで続いた。
※この「アヴィニョン捕囚から大分裂へ」の解説は、「アヴィニョン捕囚」の解説の一部です。
「アヴィニョン捕囚から大分裂へ」を含む「アヴィニョン捕囚」の記事については、「アヴィニョン捕囚」の概要を参照ください。
- アヴィニョン捕囚から大分裂へのページへのリンク