ローマ帝国復興
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詳細は「カール大帝」を参照 774年、カールはランゴバルドの首都パヴィアを占領し、自らランゴバルド王=イタリア王となった。中世イタリア王国の始まりである。北イタリアは事実上フランク王国の一部となった。カールはさらに父ピピンの例にならって中部イタリアの地を教皇に寄進した。しかし南イタリアはランゴバルド族の支配に留まり、ランゴバルド族の支配が終わっても、フランク王国や神聖ローマ帝国に組み込まれることはなかった。また、カールは772年から30年にわたるザクセン戦争を行い、異教を守って最後まで抵抗をつづけたザクセン人の国家もフランク王国の一部とした。こうしてカールはイギリス、アイルランド、イベリア半島、イタリア南端部をのぞく西ヨーロッパ世界の政治的統一を達成し、混乱した西ヨーロッパ世界に安定をもたらしたのである。 797年、東ローマ帝国でエイレーネーが皇帝コンスタンティノス6世を追放し、ローマ皇帝史上初めての女帝を名乗った。この女帝即位は帝国の西部では僭称として認められず、ローマ皇帝位は空位の状態であるとみなされた。そこで教皇レオ3世は、800年12月25日、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂のクリスマスミサにて、58歳のカールを「ローマ皇帝」として戴冠した。これ以後、カールは自らの公文書において、それまで用いていた「ローマ人のパトリキウス」の称号を改め、「ローマ帝国を統べる皇帝」と署名するようになった。 この戴冠については当時カールに仕えていたアインハルトが、レオ3世とカールとの間には認識の差があったとして「もし前もって戴冠があることを知っていたら、サン・ピエトロ大聖堂のミサには出席しなかっただろう」というカールの言葉を伝えているが、現在の歴史学においてこれは事実とは考えられていない。少なくともカールは自身の戴冠については事前に知っており、また皇帝への就任にも意欲的であったろうことがいくつもの研究によって示されている。レオ3世は前年の799年に反対派に襲われてカールの下に逃げ込んだことがあったが、カールへの戴冠はレオ3世を助けたことへの報酬でもあり、教皇権の優位の確認でもあり、東ローマ帝国への対抗措置でもあったのである。この教皇による戴冠は16世紀まで帝国にとっての伝統となった。 カールがローマ皇帝に戴冠された後も、コンスタンティノポリスの皇帝はカールの皇帝称号を僭称であるとして容易に認めようとはしなかった。カールは自らの皇帝称号を帝国東方でも承認させるため、コンスタンティノポリスの宮廷へ使者を送った。コンスタンティノポリスの女帝エイレーネーからは彼女との結婚によるローマ帝国の統一が提案され、この申し出にカールも乗り気であったが、まもなくエイレーネーがクーデターによって失脚したため、この縁談は実現することがなかった。しかし、エイレーネーの死後の812年にようやく両者の間で妥協が成立し、カールが南イタリアの一部と商業の盛んなヴェネツィアを東ローマ皇帝領として譲り渡す代わりに、東ローマ皇帝ミカエル1世はカールの帝位を承認した。ただ、この時にも東ローマ側としては「ローマ人の皇帝」はコンスタンティノポリスの東ローマ皇帝のみであるとしており、カールには「ローマ人の皇帝」ではなく「フランクの皇帝」としての地位しか認めていない。これは後の第一次ブルガリア帝国の皇帝シメオン1世などに対しても同様である。 西欧的立場から見るならば、カールの戴冠は大きな意味を持っていた。これまで地中海世界で唯一の皇帝であった東ローマ皇帝に対し、西ヨーロッパのゲルマン社会からも皇帝が誕生したからである。ここでローマ教会と西欧は東ローマ皇帝の宗主権下からの政治的、精神的独立を果たしたと評価されている。 814年に大帝は71歳で死去し、存命だった唯一の息子ルートヴィヒ1世が35歳前後で後を継いだ。
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