坂本俊篤とは? わかりやすく解説

坂本俊篤

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/15 01:28 UTC 版)

坂本俊篤

坂本 俊篤(さかもと としあつ、1858年11月30日安政5年10月25日)- 1941年昭和16年)3月17日[1])は、日本海軍軍人政治家。海軍中将従二位勲一等功三級男爵[1]貴族院議員

経歴

諏訪藩士・砲術家の坂本俊信の二男として江戸藩邸に生まれ、のち諏訪郡長・坂本俊秀の養子となる。

1879年7月、海軍兵学校6期)を卒業。同期に斎藤実山内万寿治がいた。1882年9月、海軍少尉フランス留学、参謀本部海軍部出仕、海軍参謀部第2課兼海大教官、「高雄分隊長、「扶桑」水雷長、「比叡」分隊長、「浪速」砲術長などを経、1893年6月に海相秘書官として西郷従道大臣に仕えた。その後、海軍大学校教官兼海軍省軍務局第1課課僚。

日清戦争では「比叡」副長、のち「秋津洲」に乗艦して出征した。戦後、「吉野」副長、軍令部出仕(フランス・ロシア出張)、軍務局第1課課僚、同局軍事課課僚、海大教頭、海大次長、海大校長心得などを歴任し、1902年5月に海軍少将

日露戦争を前に、1903年12月に海大は一時、休校となる。1904年2月に海大校長から佐世保鎮守府参謀長へ転出し、鮫島員規司令長官から業務の一切を委ねられて多忙を極めた。日露戦後の1905年11月に海大校長に転任し、1905年11月に海軍中将。兼海軍教育本部長、教育本部長、兼将官会議議員を歴任し、1913年5月に予備役編入。1918年10月25日に後備役となる[2]

1907年9月には男爵位を授爵して華族となる。1917年7月5日、貴族院議員補欠選挙で貴族院男爵議員に選出され[3]公正会に所属して1939年(昭和14年)7月9日まで4期在任した[1]

海軍においては主に教育畑を歩み、教育改革に尽力した。墓所は護国寺

海大の父

坂本俊篤

坂本は12年の長きに渡り海軍大学校教育に携わった。フランス海軍大学の調査のため渡仏し、帰国後海大の改革に取り組む。それまでの「将校科」を甲種、乙種、選科及び機関科に分割し、段階に応じた教育を施すとともに講座に「軍政」を設けた。軍政教育が始まったのは鈴木貫太郎らが在籍した将校科甲種1期からである。また教官に優秀な人材を求め、山本権兵衛海相に具申して秋山真之少佐を招いたほか、加藤友三郎島村速雄山屋他人らの教官配置を実現させた。その熱意は海軍戦略の大家であるアルフレッド・セイヤー・マハン大佐の招聘を目指した程であった。1906年(明治39年)7月には海軍大学校教則を定め、翌年には海軍大学条例を改正。甲種、乙種、専修、機関、選科の教程を設けると共に教育綱領を設けた。

こうした海大教育に対する貢献から坂本は海大の父と呼ばれた。

栄典・授章・授賞

位階
爵位
勲章等
受章年 略綬 勲章名 備考
1895年(明治28年)9月27日 単光旭日章[13]
1895年(明治28年)9月27日 功四級金鵄勲章[13]
1895年(明治28年)11月18日 明治二十七八年従軍記章[14]
1896年(明治29年)5月26日 勲五等瑞宝章[15]
1899年(明治32年)12月27日 勲四等旭日小綬章[16]
1904年(明治37年)5月27日 勲三等瑞宝章[17]
1906年(明治39年)4月1日 勲二等旭日重光章[18]
1906年(明治39年)4月1日 功三級金鵄勲章[18]
1906年(明治39年)4月1日 明治三十七八年従軍記章[18]
1928年(昭和3年)11月10日 金杯一個[19]
1938年(昭和13年)4月28日 勲一等瑞宝章[20]
1940年(昭和15年)8月15日 紀元二千六百年祝典記念章[21]
外国勲章佩用允許
受章年 国籍 略綬 勲章名 備考
1892年(明治25年)4月23日 ロシア帝国 神聖アンナ第三等勲章英語版[22]
1894年(明治27年)12月1日 安南帝国 ドラゴンドランナン勲章フランス語版オフヒシエー[23]
1896年(明治29年)12月1日 ロシア帝国 神聖スタニスラス第二等勲章英語版[24]
1899年(明治32年)4月21日 ロシア帝国 神聖アンナ第二等勲章[25]
1901年(明治34年)3月12日 デンマーク王国 ダネブロク勲章コマンドールドラスコンドクラス[26]
1912年(大正元年)10月11日 イギリス帝国 ヴィクトリア第一等勲章[27]
1935年(昭和10年)9月21日 満洲帝国 満洲帝国皇帝訪日記念章[28]

親族

脚注

  1. ^ a b c 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』72頁。
  2. ^ 『官報』第1870号、大正7年10月26日。
  3. ^ 『官報』第1479号、大正6年7月6日。
  4. ^ 『官報』第228号「叙任」1884年4月7日。
  5. ^ 『官報』第1970号「叙任及辞令」1890年1月25日。
  6. ^ 『官報』第3199号「叙任及辞令」1894年3月1日。
  7. ^ 『官報』第4413号「叙任及辞令」1898年3月22日。
  8. ^ 『官報』第5790号「叙任及辞令」1902年10月21日。
  9. ^ 『官報』第6729号「叙任及辞令」1905年12月4日
  10. ^ 『官報』第8251号「叙任及辞令」1910年12月21日。
  11. ^ 『官報』第311号「叙任及辞令」1913年8月12日。
  12. ^ 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
  13. ^ a b 『官報』第3676号「叙任及辞令」1895年9月28日。
  14. ^ 『官報』第3824号・付録「辞令」1896年4月1日。
  15. ^ 『官報』第3879号「叙任及辞令」1896年6月5日。
  16. ^ 『官報』第4949号「叙任及辞令」1899年12月28日。
  17. ^ 『官報』第6271号「叙任及辞令」1904年5月28日。
  18. ^ a b c 『官報』号外「叙任及辞令」1907年1月28日。
  19. ^ 『官報』号外「授爵、叙任及辞令」1928年11月10日。
  20. ^ 『官報』第3394号「叙任及辞令」1938年4月30日。
  21. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
  22. ^ 『官報』第2644号「叙任及辞令」1892年4月25日。
  23. ^ 『官報』第3440号「叙任及辞令」1894年12月14日。
  24. ^ 『官報』第4030号「叙任及辞令」1896年12月3日。
  25. ^ 『官報』第4743号「叙任及辞令」1899年4月27日。
  26. ^ 『官報』第5308号「叙任及辞令」1901年3月16日。
  27. ^ 『官報』第69号「叙任及辞令」1912年10月23日。
  28. ^ 『官報』第2866号・付録「辞令二」1936年7月22日。
  29. ^ 『平成新修旧華族家系大成 上巻』654頁。

参考文献

  • 太田阿山『男爵坂本俊篤伝』東亜協会、1942年。
  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 実松譲 『海軍大学教育』光人社、1975年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館、1996年。
  • 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。

外部リンク

日本の爵位
先代
叙爵
男爵
坂本(俊篤)家初代
1907年 - 1941年
次代
坂本大造




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