海大の父
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 01:11 UTC 版)
坂本は12年の長きに渡り海軍大学校教育に携わった。仏国で創設されたフランス海軍大学の調査のため渡仏し、帰国後海大の改革に取り組む。それまでの「将校科」を甲種、乙種、選科及び機関科に分割し、段階に応じた教育を施すとともに講座に「軍政」を設けた。軍政教育が始まったのは鈴木貫太郎らが在籍した将校科甲種1期からである。また教官に優秀な人材を求め、山本権兵衛海相に具申して秋山真之少佐を招いたほか、加藤友三郎、島村速雄、山屋他人らの教官配置を実現させた。その熱意は海軍戦略の大家であるアルフレッド・セイヤー・マハン大佐の招聘を目指した程であった。1906年(明治39年)7月には海軍大学校教則を定め、翌年には海軍大学条例を改正。甲種、乙種、専修、機関、選科の教程を設けるとともに教育綱領を設けた。 こうした海大教育に対する貢献から坂本は海大の父と呼ばれた。
※この「海大の父」の解説は、「坂本俊篤」の解説の一部です。
「海大の父」を含む「坂本俊篤」の記事については、「坂本俊篤」の概要を参照ください。
- 海大の父のページへのリンク