第十次包囲戦(1506年9月-1506年12月/1507年1月)
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第九次包囲戦後、ジブラルタルはデ・グスマン家が実力で支配していた。しかし1501年、カスティーリャ女王イサベル1世は、ジブラルタルは貴族の私領のままにするにはあまりにも重大な拠点であると考え、先代のエンリケ4世と同様にジブラルタルを王冠領とする勅令を発した。この時はデ・グスマン家も目立った抵抗を示さなかった。しかし1504年にイサベル1世が死去し、国内が騒乱に陥ると、第三代メディナ=シドニア公フアン・アルフォンソ・ペレス・デ・グスマンは軍勢を集め、ジブラルタル回復を目指して進軍した。彼の期待に反してジブラルタルの守備隊は開城しなかったため、だらだらと包囲戦が長引くことになった。4か月後、セビリア大司教が仲介に入り、これ以上ジブラルタルの住民の意に反して街を攻め続けるのは不名誉であるとフアンを説得した。フアンはこれを受け入れ撤退、結局両陣営ともほとんど死傷者を出すことなく包囲戦は終結した。戦後、ジブラルタル市には「最も忠実な」という称号が与えられた。
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