東松2号船団
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2回目の東松輸送である東松2号船団は、第31軍司令部や派遣隊多数を含む重要船団で、当初から松船団として運航された。加入輸送船は12隻、直衛は乙直接護衛部隊の9隻で、軽巡龍田を旗艦とし駆逐艦4隻を含む強力な陣容だった。さらに、前路哨戒のために水雷艇1隻・掃海艇2隻・漁船7隻も協力した。船団速力は8.5ノットである。船団の重要性にかんがみ、航空支援を担当する松2号特別哨戒飛行隊(陸上攻撃機5機・大型飛行艇3機・艦上攻撃機6機)が第901航空隊と第903航空隊から集成された。同飛行隊は、海上護衛総司令部参謀副長の島本久五郎少将の指導の下、船団の行動に合わせて硫黄島やサイパン島などの陸上基地に進出し、対潜哨戒にあたることになった。 3月9日に東京湾に集結した船団は横須賀で船団会議を開き、翌10日は湾内での訓練に充てた後、出航を一日延期して12日未明に木更津沖錨地を出撃した。ところが出航翌日の13日午前3時頃、八丈島西南西74km付近で船団はアメリカの潜水艦サンドランスから発見された。当時、風速10m前後の強風と波浪のため海上は視界不良で、日本側は奇襲攻撃を許してしまった。サンドランスの放った魚雷は旗艦龍田と船団運航指揮官乗船の国陽丸(大阪商船:4607総トン)に相次いで命中し、いずれも沈没した。サンドランスはさらに1隻の輸送船撃沈を報じているが、日本側に該当記録はない。龍田の第11水雷戦隊司令部は駆逐艦野分に移乗して指揮を継続したが、国陽丸の運航指揮官近野信雄大佐は退艦せずに戦死した。その後は敵潜水艦らしきものを爆雷で制圧しつつ安全に航行し、18日にパガン島行きの高岡丸(第1派遣隊乗船)を分離、19日にサイパンへと入港した。カロリン諸島のエンダービー島(現在のプルワト環礁)やトラック島へ向かう船は、船団を離れて第二海上護衛隊の指揮下で航海を続け、無事に目的地へ部隊を揚陸した。 復航船団は、3月20日の命令で輸送船14隻と護衛艦7隻により編成された。24日にサイパンを出港し、運送艦宗谷が故障で離脱したほか、4月1日に無事に東京湾に到着した。
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東松2号船団
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3月12日東京湾発、3月19日サイパン着。20日にカロリン諸島行きの船は船団から除外された。
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