太平洋戦争期の宇垣擁立工作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 00:48 UTC 版)
「宇垣一成」の記事における「太平洋戦争期の宇垣擁立工作」の解説
同年9月に辞任し以後一線を退いた。昭和19年(1944年)に拓殖大学第5代学長に就任している。この間も、民間から重臣層に至る幅広い和平派グループからの信頼が厚い宇垣は、何度も首班候補に挙げられている。特に、吉田茂は昭和14年から18年にかけ、度々宇垣首班擁立工作を行なったが、陸軍や内大臣の湯浅倉平、木戸幸一らの反対で全て失敗に終わっている。なお、吉田はこのような活動が元で昭和20年4月に憲兵隊に逮捕されている。 昭和14年(1939年)、吉田は、平沼内閣総辞職が噂されると、岳父で元内大臣の牧野伸顕や貴族院議員の樺山愛輔、元時事新報社社長の小山完吾らを通じ宇垣擁立工作を行うが、昭和天皇や陸軍が阿部信行を推したこともあり、断念した。また、昭和15年(1940年)秋には第2次近衛内閣の総辞職を勧告し、宇垣に対しても組閣工作を促す手紙を送っている。さらに、昭和17年(1942年)、吉田は、4月に宇垣と平沼騏一郎の会談、10月に宇垣と真崎甚三郎(陸軍皇道派の領袖)の会談を実現させ、12月には東大病院に入院中の近衞文麿への根回しを行い、宇垣に組閣を打診するが、このときは拘束の多い中での組閣は望まないとして宇垣が断っている。 宇垣擁立工作を行なったのは吉田だけではない。東條内閣打倒の急先鋒だった中野正剛らは、昭和18年(1943年)、宇垣が後継首班として倒閣運動を行い、重臣たちの了解も取り付けた。宇垣本人も中野の策を了承し、東條内閣打倒に賛意を示した。しかし中野たちのこの倒閣運動は東條英機に事前に弾圧され、ここでも宇垣内閣は誕生することはなく終わった。 軍部を抑えることのできる人材として期待を集めた宇垣だったが、陸軍大臣時代に大規模な宇垣軍縮を実施したこと、三月事件で実行直前に翻意したことで陸軍内に敵が多く、その影響力は低下しており、ついに首相となることはなかった。
※この「太平洋戦争期の宇垣擁立工作」の解説は、「宇垣一成」の解説の一部です。
「太平洋戦争期の宇垣擁立工作」を含む「宇垣一成」の記事については、「宇垣一成」の概要を参照ください。
- 太平洋戦争期の宇垣擁立工作のページへのリンク