摩耶の最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/26 00:46 UTC 版)
詳細は「レイテ沖海戦」を参照 1944年(昭和19年)10月、第四戦隊(愛宕、高雄、鳥海、摩耶)はレイテ沖海戦に参加、栗田中将は引き続き愛宕を旗艦としていた。摩耶は第一遊撃部隊(通称栗田艦隊)の一艦として22日午前8時、ブルネイを出港した。しかし23日午前6時30分前後、パラワン水道にて米ガトー級潜水艦ダーター (USS Darter, SS-227) とデイス (USS Dace, SS-247) の2隻が栗田艦隊を襲撃した。まずダーターが雷撃をおこない愛宕が轟沈、高雄も航行不能となった(高雄は駆逐艦2隻《長波、朝霜》に護衛され撤退)。旗艦愛宕の沈没により栗田艦隊が混乱する中、つづいてデイスが摩耶に対し雷撃をおこなった。デイスは摩耶を戦艦だと誤認していた。魚雷航跡を発見し、回避運動をとるも間に合わなかったという。6時57分、摩耶の左舷に魚雷4本が命中した(艦首錨鎖倉庫、一番砲塔、七番缶室、後部機械室附近。摩耶は左舷に大傾斜し艦首から海没をはじめ、7時5分に沈没した。沈没地点北緯09度27分 東経117度23分 / 北緯9.450度 東経117.383度 / 9.450; 117.383。第一戦隊司令官宇垣纏中将(大和座乗)は当時の状況について、このように記述している。 敵潜僚艦の存在あれば過度に避退するも亦危險を伴ふ。のみならず、先任指揮官として過度の離隔も視界の關係上出來ず。5Sの轉舵後1D/1Sも取舵に從陣となる。此の時右斜め前の4S四番艦摩耶爆發、水煙爆煙の消へたる跡にはほとんど影なし。同艦左前一五〇〇米に發射源を認む。大和が今少し何れにかより居りたらんには當然三四本を見舞はれたる處なり。 — 宇垣纒、戦藻録(昭和十九年十月廿三日) 大江艦長以下336名が戦死した。この中には、東郷平八郎元帥の孫、東郷良一中尉も含まれていた。副長以下769名(士官47名、下士官兵722名)が駆逐艦秋霜に救助され、午後4時前後に大和型戦艦武蔵に横付、摩耶の乗組員を移乗させた。武蔵主計長は永末英一摩耶主計長に「本艦は絶対に沈まないから安心せよ」と梅酒をすすめたという。摩耶航海長も武蔵運用長から同様の話を聞いている。 翌10月24日、栗田艦隊はアメリカ機動部隊艦載機に襲撃され、武蔵は集中攻撃を受けて航行不能となった。摩耶の生存者は自発的に戦闘配置に就き、また武蔵艦橋への命中弾で作戦室にいた摩耶副長・軍医を含む摩耶士官多数が死傷するなど、計117名が戦死した。午後6時30分、武蔵の舷後部に横付けした島風型駆逐艦島風に摩耶乗組員607名と連合艦隊司令部附法務士官4名が移乗したが、武蔵の応急修理作業に従事すべく摩耶士官4名・下士官兵41名が武蔵に残留した。午後7時40分、島風・摩耶乗組員は武蔵沈没時の火柱を目撃した。翌日以降の戦闘においても摩耶乗組員は島風の水上・対空戦闘に参加し、5名が戦死、8名が戦傷。10月26日午後10時、島風はコロン島(コロン湾)に到着した。最終的な戦死者は470名だった。その後、摩耶の生存者は日本へ帰投する隼鷹輸送部隊(空母隼鷹、重巡利根、駆逐艦《卯月、夕月、時雨》)のうち利根に便乗して日本本土へ向かった。 12月20日、摩耶は帝国軍艦籍より除籍された。
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