摩耶工区
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 07:11 UTC 版)
摩耶工区は、新大阪起点27K600Mから30K500Mまでの延長2,900メートルを掘進する工区である。鹿島建設が施工を担当した。地質は29K800M付近を境に東側の六甲花崗岩と西側の布引花崗閃緑岩にわかれていた。一部で風化を受けていたり、断層による圧砕を受けていたりするが、全体として安定した岩質であり、六甲トンネルの中では地質的に恵まれていた。斜坑の延長は430メートル、勾配は3.9分の1で本坑とは51度55分の角度で交差し、交点のキロ程は30K162M37である。1967年(昭和42年)3月3日に着工した。 坑外設備を設ける位置は当初は五毛谷川の斜面を予定していたが、1967年(昭和42年)7月の豪雨により予定地付近が災害に遭ったことから、神戸製鋼所と協議して同社の丸山グランドの一部を借地して設備を設けることになった。この付近は学校があり住宅密集地であったことから建設に強い反対運動があり、対策として騒音防止に配慮することになり、防音対策を施した設備を設けた。またずりの搬出に際して、ダンプカーの運行による一般への影響、騒音を防止するために、杣谷川の上にベルトコンベアを架設して運搬した。 斜坑口は高尾谷川の西側にあり、神戸製鋼所丸山グランド西側を借地してここに諸設備を設け、搬出したずりを一時貯留するずりビンもここにある。ここからベルトコンベアを東に伸ばし、杣谷川上空を南に伸ばして、灘区篠原北町の神戸市道野崎線沿いにある市営住宅跡地まで773.5メートルを架設して、ここからダンプカーに積み替えて搬出した。 1967年(昭和42年)3月から着工する予定であったが地元の反対運動が強くて協議に時間を要し、9月末になってようやく着工の了解を得て10月中旬から斜坑の掘削を開始した。全断面掘削で工事が進められた。1968年(昭和43年)4月1日に本坑に到着し、斜坑の坑底設備の準備を行って、新大阪方と岡山方へ同時に掘削を開始した。岡山側は、斜坑から30メートルほどの地点で断層に遭遇して異常出水に見舞われて約1か月工事を中断して排水を行い、湧水が減少してから再着手して12月16日に春日野工区境界に到達した。新大阪側は比較的順調に工事を進められ、1969年(昭和44年)10月初頭に鶴甲工区との境界に到達した。以降切り広げと覆工を行ってトンネルを完成させた。なお摩耶工区においてもコンクリート搬入立坑を2か所に設けた。 1971年(昭和46年)3月22日に摩耶工区は竣工した。工区の工費は28億6000万円であった。
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