再着手
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 04:05 UTC 版)
「ピアノ五重奏曲第1番 (フォーレ)」の記事における「再着手」の解説
ピアノ五重奏曲第1番の作曲が再開されたのは1903年で、フォーレ58歳のときである。 前年の1902年秋からフォーレはスランプに陥っていた。フォーレの友人エミリ・ジレットの日記では、フォーレの疲れ果てた状態について「ひどい偏頭痛に苦しみ、黄ばんだ顔で、光のない眼、……とにかく驚くような」と記している。なお、ピアノ五重奏曲第1番の中断期間中に書かれたフォーレの主な作品として、『主題と変奏』(1895年)、連弾組曲『ドリー』(1896年)、『ペレアスとメリザンド』(1898年)、悲歌劇『プロメテ(英語版)』(1900年)などがある。 1903年3月からフォーレは「フィガロ」紙の音楽批評を担当し、4月にはレジオンドヌール勲章(勲四等)を授与された。一方で、晩年のフォーレを悩ませることになる聴覚障害の兆候が同じ年の夏から始まっている。この年からフォーレは夏の休暇をスイスで過ごすようになり、これは1914年まで続くことになる。ネクトゥーは、フォーレはスイスに特別の愛着を示し、この国の湖が持つ静まり返った美しさは、彼の内なる夢を掻き立てつづけたとする。 1903年8月、スイス滞在が始まると、フォーレは新しい作品を書き始めた。当初はヴァイオリンソナタが念頭にあったが、その後これはピアノ五重奏曲第1番の緩徐楽章となっていき、この年から3年間の夏を通じてこの曲は完全に書き改められ、さらに新しい部分がつけ加えられた。1905年の夏、チューリヒのシュテルンヴァルテ荘でフォーレはピアノ五重奏曲第1番を完成させた。このとき、舟歌第7番も作曲している。 同年10月、「ラヴェル事件」によって辞任したテオドール・デュボワの後任として、フォーレはパリ音楽院の院長に就任する。またこのためにマドレーヌ寺院の主席オルガニストと音楽学校視学官を辞任している。
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