交際と結婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 05:47 UTC 版)
ヴェレスは何度か大々的に報道され、頻繁に大荒れとなる恋愛に夢中になった。ロサンゼルスに到着すると同時に、俳優のトム・ミックス(英語版)、チャールズ・チャップリン、クラーク・ゲーブル(報道によると彼女が恋人とのプライバシーを公的に暴露すると言う評判のために始まった直後に関係は終わった)と関係を持った。注目を集めた初めての長期間の交際相手は俳優ゲイリー・クーパーであった。1929年に『狼の唄』撮影中にクーパーと出会い、2年間に及ぶ恋人関係が始まった。クーパーとの関係は情熱的ではあったが、度々荒れ狂った。怒り狂うとヴェレスは彼に身体的暴力を加えたとされる。結局ヴェレスに断固たる拒絶を示したクーパーの母アリスにより、1931年中頃2人は強制的に別れさせられた。その頃には苛烈な交際によりクーパーは体重が45ポンド(約20kg)減り、神経衰弱で苦しめられていた。パラマウント映画は、彼に回復するための休暇を取るよう命じた。クーパーが電車に乗り込む際、ヴェレスは駅に現れ拳銃を彼に向けて発砲した。 クーパーとの破局の後、俳優ジョン・ギルバートと短期間の交際を開始。ギルバートが3人目の妻アイナ・クレアと別れた1931年後半から付き合い始めた。2人は婚約したと伝えられているが1932年前半に別れ、ギルバートはクレアと復縁しようとした。 その後間もなく、互いにニューヨークに滞在中に俳優のジョニー・ワイズミュラーと出会った。各々ロサンゼルスに戻った後、時折デートするようになったが、ヴェレスは同時に俳優エロール・フリンとも付き合っていた。1933年10月8日、ワイズミュラーとラスベガスで結婚。2人の関係もまた、家庭内の暴力や公然の諍いなど激しいものだった。結婚10ヵ月目の1934年7月、ヴェレスは虐待を理由に離婚訴訟を提出したが、1週間後にワイズミュラーと和解し訴状を取り下げた。1935年1月3日、ヴェレスは二度目の離婚訴訟を起こし、中間判決が下された。1ヵ月の調停後、この判決は退けられた。1938年8月、ヴェレスは再び虐待を理由に3度目の離婚訴訟を起こした。1939年8月、彼らの離婚は成立した。 離婚後の1940年後半、俳優のグイン・"ビッグ・ボーイ"・ウィリアムズ(英語版)と交際を始めた。彼らは婚約までしたが、結婚には至らなかったと言う。1941年後半には、作家のエーリヒ・マリア・レマルクと短期間交際していた。女優ルイーゼ・ライナーは、ヴェレスの気性が素晴らしいと「巨大な歓喜と共に」理解した、とレマルクが自分に語っていた事を後に回想した。彼はヴェレスが激怒して脱いだ靴で殴った事をライナーに報告していた。レマルクと別れた後、ボクサーのジャック・ジョンソンやジャック・デンプシー(自殺する当日のディナーに招いた親友のエステル・テイラーの前夫)と短期間関係を持った。 1943年、メキシコ映画『La Zandunga』の共演者であったアルトゥーロ・デ・コルドヴァ(英語版)と交際を始めた。この頃デ・コルドヴァはパラマウント映画と契約を結び、ハリウッドに移り住んでいた。デ・コルドヴァがメキシコの女優エンナ・アラナと結婚しており、4人の子供たちがいたにも関わらず、1943年9月にゴシップ記者ルエラ・パーソンズのインタビューを受けた際、ヴェレスは2人が婚約していると公表した。彼女は「料理と家事」のためにデ・コルドヴァとの結婚後は引退する心算だとパーソンズに話した。デ・コルドヴァの妻が離婚を拒み、1944年前半に婚約は解消された。 その後ハラルド・マレシュ(芸名ハラルド・ラモンド)という、デ・コルドヴァが出演していた映画のエキストラをしていた若いオーストリア人俳優と付き合い始めた。1944年9月、ラモンドの子供を妊娠している事が判明。1944年11月下旬に婚約を発表。だが死の4日前にあたる12月10日にヴェレスは婚約を解消し、ラモンドを家から叩き出したと発表した。婚約破棄の理由は、ラモンドの恋人フランチェスカ・ヴィティナーが彼との結婚の約束を反故にしたと言う事で、彼を告訴した事が切っ掛けであったと思われる。
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