「ヘネラル・セイファルト」連隊の捜索
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「デルク=エルスコ・ブラインス」の記事における「「ヘネラル・セイファルト」連隊の捜索」の解説
1944年7月末、エストニアのドイツ軍はナルヴァ市を放棄し、ナルヴァ市西方の防衛線である「タンネンベルク線」(Tannenbergstellung)への後退を開始した。この後退の間、「ネーデルラント」旅団の第48SS義勇装甲擲弾兵連隊「ヘネラル・セイファルト」は第ⅢSS装甲軍団の後衛を務めていたが、無線連絡が途絶したことにより、旅団本部は同連隊の所在が分からなくなっていた。そこで、同連隊の捜索および退路の確保を命じられた第54SS戦車猟兵大隊第1中隊長フィリップ・レンメルト(Philipp Römmelt)SS少尉はブラインスSS軍曹に対し、突撃砲2輛を率いてこの任務に当たるよう命じた。 1944年7月26日(資料によっては27日)朝、整備不良の3号突撃砲G型3輛からなるブラインスの小隊は「ヘネラル・セイファルト」連隊捜索のため東進したが、その途中でソ連軍の戦車部隊と遭遇した。この戦闘でブラインス小隊は敵戦車2輛を撃破したが、同時に突撃砲2輛を撃破されてしまった。このため、これ以上の前進は危険と判断したブラインスは自分たちの突撃砲を巧みに隠蔽し、「ヘネラル・セイファルト」連隊が現れるのを待った。 しかしその後、ブラインスの視界に現れたのは「ヘネラル・セイファルト」連隊ではなく、西進するソ連軍の戦車部隊であった。接近する敵戦車の待ち伏せに成功したブラインスの突撃砲は8輛のT-34を撃破し、その他を行動不能にした。結局、「ヘネラル・セイファルト」連隊の発見はかなわなかったものの、この戦闘の功績が認められ、ブラインスには1944年8月23日付で騎士鉄十字章が授与され、彼はヘラルダス・モーイマンに続くオランダ人義勇兵第2の騎士鉄十字章受章者となった。
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