「ヘネラル・セイファルト」連隊の喪失
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「第23SS義勇装甲擲弾兵師団」の記事における「「ヘネラル・セイファルト」連隊の喪失」の解説
1944年7月25日午後5時頃、ナルヴァ市残留のドイツ軍後衛部隊に命令が通達された。「1800時をもって全部隊は61番線(Hungersburg - Soldino)を横切って西を目指すこと」。これに従って「ダンマルク」連隊第7中隊は鉄道路線に沿って西方へ退却したが、その間に敵との接触はなかった。しかしながら、「デ・ロイテル」連隊第II大隊および「ヘネラル・セイファルト」連隊が撤退する予定の主要補給道路はすでにソビエト赤軍によって制圧されていた。 ゴヴォロフはドイツ軍の撤退を察知して戦線への全面攻撃を開始したため、旅団の残存部隊がナルヴァ川から撤退する間、「ネーデルラント」旅団の後衛部隊は押し寄せるソビエト赤軍を辛うじて食い止めていた。しかし、第48SS義勇装甲擲弾兵連隊「ヘネラル・セイファルト」は、連隊長イェルヒェルSS中佐の後任として2日前に着任したリヒャルト・ベンナー(Richard Benner)SS中佐の重大な判断ミスのために悲惨な末路を辿ることになる。 1944年7月29日、フリューハウフSS大尉と彼の部隊が北西に向かってソビエト赤軍部隊を食い止める間、旅団の砲兵連隊は西部へ全速力で後退した。北西部のソビエト赤軍を駆逐して退路を確保したフリューハウフたちは主要撤退路の左右を固め、第48SS装甲擲弾兵連隊「ヘネラル・セイファルト」の到着を待った。 しかし、どういうわけかフリューハウフたちと「ヘネラル・セイファルト」連隊との連絡は途絶えてしまった。無線も通じず、さらに撤退予定路から聞こえる戦場騒音を耳にした第48SS義勇装甲擲弾兵連隊長ベンナーSS中佐は、ソビエト赤軍を避けるために主要撤退路から外れ、事前計画と違うルートを独自の判断で選んだ。フリューハウフたちはいつまで経っても現れない「ヘネラル・セイファルト」連隊を待ち続けたが、7月30日午前1時に通達された命令に従って西方へ後退した。 7月30日午前5時30分、ナルヴァ市西方のLaagnaに到達した「ヘネラル・セイファルト」連隊は問題に直面した。Laagna一帯の地形は泥沼であったため、連隊の車列は著しく行動を制限されてしまった。さらに、ソビエト赤軍の砲兵部隊およびソビエト空軍の戦闘爆撃機に捕捉されてしまったため、「ヘネラル・セイファルト」連隊は空と地上からの両面攻撃を受けることとなった。そして、斥候の報告によって連隊は30輌の敵戦車および300名の敵兵に直面していることが明らかとなった。 7月30日午前9時頃、ベンナーSS中佐はどうにか旅団本部との連絡をつけた。「我々は森を抜けて西進し、それから南へ向かう」そして、ベンナーSS中佐は連隊の重装備(無線搭載車両含む)をすべて破壊し、森を抜けて西を目指すよう命じた。これによって連隊は旅団本部からの「お前たちはどこにいる?」という位置確認の無線連絡も受けることができなくなった。 7月30日午後5時30分頃、ベンナーSS中佐が先頭に立った「ヘネラル・セイファルト」連隊の残余は包囲網突破のための突撃を開始した。しかし、絶え間ない砲撃と森の中から次々と現れるソビエト赤軍によって、ベンナーSS中佐をはじめ連隊の将校・下士官は次々と戦死し、連隊はパニック状態に陥った。これまで不眠不休で戦い続け、疲弊しきったオランダ人義勇兵たちはソビエト赤軍の格好の標的であり、30分後の午後6時頃に連隊は殲滅された。数日後、タンネンベルク防衛線に生きて辿り着いたのは「ヴイーキング」師団以来の古参オランダ人中隊長コルネリウス・ニーウエンダイク=フーク(Cornelius Nieuwendijk-Hoek)SS少尉を含む少数の残存兵のみであった。 このナルヴァ撤退戦で「ネーデルラント」旅団は2個連隊の内の1つを失い、経験豊富なベテラン兵を多数失ってしまった。全滅した第48SS装甲擲弾兵連隊はシュロッヒャウ(現、Człuchów)で再度、編成を行うよう命令された。
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